テレビこのタグの資料 28 本
- ダウンタウン NSC1期生が漫才とコントの「間」を変えた新着No.96
ダウンタウンは、吉本興業の養成所 NSC の1期生、松本人志と浜田雅功が1982年に組んだコンビである。ゆったりした間の漫才と、関係性で笑わせるコントで1990年代のテレビの笑いの中心になった。2024年に松本が週刊誌報道を受けて活動を休止し、2025年11月に有料配信「DOWNTOWN+」で再開したが、2026年10月に術後の体調から休養を続けると伝えている。
- タモリ 密室芸のアングラ芸人が、昼の生放送を32年近く続けた新着No.95
タモリ(森田一義、1945〜)は、ジャズ仲間の間で知られた素人芸を赤塚不二夫に見いだされ、1975年に上京した。デタラメ外国語や形態模写の「密室芸」で深夜の人気者になったあと、1982年から2014年まで昼の生放送『笑っていいとも!』の司会を務め、ギネス世界記録に認定された。2026年も『ミュージックステーション』の司会と『ブラタモリ』を続けている。
- 明石家さんま 落語家の弟子からテレビのしゃべりの頂点へ新着No.94
明石家さんま(1955〜)は笑福亭松之助に入門した落語家の出だが、形態模写とトークでテレビに活路を開き、『オレたちひょうきん族』で全国区になった。1999年には「日本で最も露出の多いテレビスター」としてギネス世界記録に認定された。70歳を過ぎた2026年も、関西と東京で冠番組の司会を続けている。
- ビートたけし 浅草の毒舌漫才から深夜ラジオ、そして世界の映画監督へ新着No.93
ビートたけし(北野武、1947〜)は浅草フランス座で修業し、ツービートの毒舌漫才で1980年の漫才ブームの中心に立った。ブーム後は深夜ラジオとテレビのバラエティで笑いの主役になり、1989年からは映画監督として『HANA-BI』でヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受けた。2026年も討論番組の司会を続けている。
- 横山やすし・西川きよし 「やすきよ」が漫才の型を崩し、ブームの頂点に立った新着No.92
横山やすしと西川きよしは1966年に組んだ吉本興業の漫才コンビで、上方漫才大賞の大賞を4回受け、1980年代初めの漫才ブームでは東西のリーダー格だった。ボケとツッコミが途中で入れ替わる型破りの漫才は、後の世代に影響を与えたとされる。1986年のきよしの参院当選と、1989年のやすしの吉本解雇でコンビは事実上幕を下ろした。
- 桂米朝 滅びかけた上方落語を、古老の聞き書きとホール落語で立て直した新着No.91
3代目桂米朝(1925〜2015)は、戦後に衰えていた上方落語を、文献と古老からの聞き取りで演目を掘り起こし、独演会やホール落語で客を育てて立て直した落語家である。1996年に人間国宝、2009年に落語家として初めて文化勲章を受けた。研究者としての仕事と、演者としての仕事が一人の中で結びついていた点に特色がある。
- 吉本新喜劇の舞台 毎週の新作、土曜昼のテレビ中継、座長が週ごとに受け持つ仕組み新着No.86
吉本新喜劇は1959年3月1日、うめだ花月の開場とともに「吉本ヴァラエティ」として始まった喜劇の一座である。今はなんばグランド花月で毎週新作を上演し、毎日放送が土曜の昼に公演を放送している。脚本と上演は、座長が週ごとに受け持つ。
- ダウンタウンのごっつええ感じ 日曜8時にコントの連作を並べ、野球中継の差し替えで終わった新着No.85
フジテレビの『ダウンタウンのごっつええ感じ』は1991年12月から1997年11月まで日曜20時に放送された、ダウンタウンを中心とするコント番組である。最高視聴率は関東で24.2%、関西で28.0%に達したが、1997年9月のスペシャルがプロ野球中継に差し替えられたことをきっかけに終わった。
- 森田一義アワー 笑っていいとも! 新宿の昼の生放送を、タモリが31年半続けた新着No.84
フジテレビの『森田一義アワー 笑っていいとも!』は1982年10月4日から2014年3月31日まで、平日の正午に新宿のスタジオアルタから生放送された。司会のタモリは全8054回を一人で務め、生放送の単独司会としてギネス世界記録に認定された。
- オレたちひょうきん族 漫才ブームの芸人たちが、作り込まない笑いで土曜8時を奪った新着No.83
フジテレビの『オレたちひょうきん族』は1981年から1989年まで土曜20時に放送されたお笑い番組で、漫才ブームで売れた芸人たちがコントやパロディを演じた。1982年10月に初めて裏番組の『8時だョ!全員集合』を視聴率で上回り、1985年の同番組の終了につながったとされる。
- 8時だョ!全員集合 毎週の公開生放送で、ドリフのコントが土曜8時を占めた16年新着No.82
TBSの『8時だョ!全員集合』は1969年から1985年まで土曜20時に放送された、ザ・ドリフターズのコント番組である。全国のホールから毎週公開生放送を行い、1973年4月7日には関東で50.5%(ビデオリサーチ)という、バラエティ番組として史上最高とされる視聴率を記録した。
- 笑点 金曜夜席から60年、座布団を積む大喜利が日曜夕方の定番になった新着No.81
日本テレビの『笑点』は1966年5月15日に始まった演芸番組で、前半の演芸と後半の大喜利という形を60年続けている。司会は立川談志から春風亭昇太まで6代を数え、2026年には「週間のテレビコメディーパネル番組の最長放送」としてギネス世界記録に認定された。
- 放送作家とテレビ局 台本の外側で笑いを組み立てる裏方たち新着No.74
放送作家は、ドラマ以外のテレビやラジオの番組で企画と構成を担う仕事である。1953年のテレビ放送の開始とともに、塚田茂や青島幸男らが番組を組み立て、のちに高田文夫、高須光聖、鈴木おさむらが芸人と組んで笑いの番組を作った。テレビ局のプロデューサーでは、フジテレビの横澤彪が漫才ブームを支えた。
- 吉本興業の歩み 天満の寄席一軒から、漫才と新喜劇とテレビの会社へ新着No.71
吉本興業は1912年、吉本吉兵衛とせいの夫婦が大阪天満の寄席を買い取って始まった。寄席を「花月」の名でまとめ、エンタツ・アチャコの漫才で客をつかみ、戦後は映画館経営を経て1959年に演芸へ戻った。2009年のTOBで上場をやめ、2019年に吉本興業ホールディングスとなった。
- 上方漫才大賞からTHE SECONDまで 年齢や芸歴や性別で分けて競う、もう一つの賞新着No.54
M-1グランプリのほかにも、芸歴を問わない上方漫才大賞(1966年〜)、新人の登竜門のNHK新人演芸大賞(1956年〜)、女性芸人の大会THE W(2017年〜)、結成16年以上の漫才師の大会THE SECOND(2023年〜)がある。2025年のTHE Wはニッチェ、2026年のTHE SECONDはトットが優勝した。
- R-1グランプリ 落語の「R」から始まった、ひとり芸の日本一決定戦新着No.53
R-1グランプリはひとりで演じる芸の大会で、2002年に「R-1ぐらんぷり」として始まった。2021年に名前を改めて出場者を芸歴10年以内に絞り、2024年にその制限を外した。2026年の第24回は過去最多の6,171人が参加し、今井らいぱちが優勝した。
- キングオブコント 芸人が芸人を採点する、コントの日本一決定戦新着No.52
キングオブコントはTBSテレビが2008年に始めたコントの大会で、2人以上のグループならプロもアマチュアも出られる。審査は準決勝敗退者の採点から芸人審査員へ、さらに歴代王者だけの審査へと移り、2026年は審査員7人と初の敗者復活戦を取り入れた。2025年はロングコートダディ、2026年はジェラードンが優勝した。
- M-1グランプリ 島田紳助と吉本の企画から、1万組を超える漫才師が目指す年末の大会へ新着No.51
M-1グランプリは2001年に島田紳助と吉本興業の谷良一が立ち上げた漫才の大会で、2010年にいったん終わり、2015年に結成15年以内へ資格を広げて復活した。2025年の第21回は11,521組が参加してたくろうが優勝し、2026年の第22回は過去最多の12,663組で予選が続いている。
- 上方の笑いと東京の笑い 違いはどこにあり、どこまで言えるのか新着No.37
上方と東京の笑いには、落語の演出や身分制度、漫才の生まれた場所、喜劇の劇団の残り方など、資料で確かめられる違いがある。一方で「大阪の人はよく笑う」「関西人はユーモアがある」という見方は、心理学の調査では裏付けがはっきりしない。違いは芸の制度と歴史にあり、人の気質の違いとまでは言い切れない。
- 喜劇・新喜劇 曾我廼家とエノケンから、松竹新喜劇と吉本新喜劇へ新着No.35
芝居で笑わせる近代の喜劇は、1904年に大阪で旗揚げした曾我廼家五郎と十郎の一座に始まる。昭和の初めには浅草でエノケンとロッパの軽演劇が人気を競った。戦後の大阪では、人情喜劇の松竹新喜劇と、テレビ局の開局と同じ日に生まれた吉本新喜劇が並び立った。
- ピン芸 活動弁士の漫談から、一人コントとR-1まで新着No.34
一人で笑わせる芸の流れは、大正の終わりに活動弁士の大辻司郎が名付けた漫談に始まる。漫談は綾小路きみまろらに受け継がれ、2000年代には一人コントやフリップ芸のピン芸人がテレビで増えた。2002年に始まったR-1ぐらんぷり(今のR-1グランプリ)が一人の芸の大会として続いている。
- コント 浅草の幕間から土曜夜のテレビへ、そして賞レースへ新着No.33
コントは役になりきり、衣装やセットを使って笑わせる寸劇である。戦前の軽演劇と戦後の浅草のストリップ劇場の幕間で磨かれ、1960年代後半からはコント55号とザ・ドリフターズがテレビの主役になった。テレビのコント番組は減っては増えを繰り返し、2008年に始まったキングオブコントが若手の目標になっている。
- 漫才 祝いの門付け芸が、背広の二人のしゃべりに変わった新着No.32
漫才のもとは、家々を回って祝いの言葉を述べた萬歳である。1930年に横山エンタツ・花菱アチャコが背広姿でしゃべるだけの形を始め、1933年に吉本が「漫才」の字を使い始めた。ボケとツッコミは萬歳の二役に由来するとされ、今は会話のまま進むしゃべくりと、寸劇に入るコント漫才が並んでいる。
- 2000年以降のお笑い 賞レースとネタ番組が若手を押し上げ、笑いの舞台は配信にも広がった新着No.7
2001年に始まったM-1グランプリを皮切りに、漫才、コント、ピン芸の賞レースが年中行事になり、2000年代にはネタ番組のブームも起きた。2010年代後半から芸人の活動はYouTubeや有料配信に広がり、M-1グランプリの出場者数は2025年、2026年と続けて過去最多を更新した。
- 1990年代のお笑い 劇場と深夜番組から出た「第三世代」がテレビの中心に座った新着No.6
1980年代に世に出たとんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンは、1990年代に自分たちの名前を冠したコント番組でゴールデンタイムの顔になり、「お笑い第三世代」と呼ばれた。90年代後半には『ボキャブラ天国』が若手のネタ見せの場となり、爆笑問題やネプチューンらが続いた。
- 1980年代のお笑い 漫才ブームが若者を客席に呼び、たけし、さんま、タモリの時代が来た新着No.5
1980年、フジテレビの『THE MANZAI』などをきっかけに漫才ブームが起き、若い客が漫才師をアイドルのように迎えた。ブームは2年ほどで落ち着いたが、そこから出たビートたけしや明石家さんまは『オレたちひょうきん族』で個人の芸人として人気を広げ、タモリは昼の生放送の顔になった。
- 1960〜70年代のお笑い 演芸ブームの公開番組から、動き回るコントの時代へ新着No.4
1960年代、客席を入れて収録する演芸番組がテレビに並び、落語家、漫才師、トリオ、コミックバンドが一度に茶の間へ届いた。演芸ブームの中からコント55号とザ・ドリフターズが現れ、舞台を動き回るコントが土曜夜の主役になった。大阪では横山やすし・西川きよしが型破りな漫才で頭角を現した。
- 戦後のお笑い 焼け跡の寄席からラジオの風刺へ、そしてテレビの時代が始まった新着No.3
焼け跡の東京と大阪で寄席が建て直され、ラジオでは風刺コントの『日曜娯楽版』が人気を集めた。1951年の民間ラジオ開局で漫才師の出番が増え、1953年にはテレビ放送が始まった。1959年には大阪でテレビ局の開局と同じ日に、のちの吉本新喜劇が幕を開けた。
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