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No.4新着 1960〜70年代のお笑い 演芸ブームの公開番組から、動き回るコントの時代へ

1960年代、客席を入れて収録する演芸番組がテレビに並び、落語家、漫才師、トリオ、コミックバンドが一度に茶の間へ届いた。演芸ブームの中からコント55号とザ・ドリフターズが現れ、舞台を動き回るコントが土曜夜の主役になった。大阪では横山やすし・西川きよしが型破りな漫才で頭角を現した。

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登録日時
2026年10月23日 23:51
出典を確かめた日
2026年10月23日
分野
1960〜70年代
立場
くらさんの考察
タグ
コント新着漫才新着落語新着喜劇・新喜劇新着上方新着東京新着寄席・劇場新着テレビ新着数字・統計新着
芸人・番組
コント55号、ザ・ドリフターズ、横山やすし・西川きよし、てんぷくトリオ、大正テレビ寄席、8時だョ!全員集合
資料の種類
事典・概説
年代
1960〜1979年

本文と出典

あらまし

1960年代のテレビは、演芸場をそのまま画面に持ち込んだ。
『大正テレビ寄席』や『てなもんや三度笠』のように、客席を入れて収録する公開番組が人気を集め、「演芸ブーム」と呼ばれる時代が来た。
ブームの中から三人組の「トリオ」が流行し、続いてコント55号とザ・ドリフターズが、体を使って舞台を動き回るコントで頂点に立った。
大阪では1966年に上方漫才大賞が始まり、同じ年に結成された横山やすし・西川きよしが新しい漫才の顔になった。

主なできごと

・1961年 「ぐうたらトリオ」が結成される(翌年「てんぷくトリオ」に改名)
・1962年5月 朝日放送制作の『てなもんや三度笠』が始まる(1968年3月まで)
・1963年6月 NETテレビ(現・テレビ朝日)で『大正テレビ寄席』が始まる(1978年6月まで)
・1964年 ザ・ドリフターズがコントへ軸足を移し、いかりや長介がリーダーになる
・1966年 上方漫才大賞が始まる
・1966年5月15日 日本テレビで『笑点』が始まる(初代司会は立川談志)
・1966年5月21日 横山やすし・西川きよしが結成される
・1966年6月30日と7月1日 ザ・ドリフターズがビートルズ日本公演の前座を務める
・1966年10月 コント55号が浅草松竹演芸場で初舞台を踏む
・1968年 フジテレビで『コント55号の世界は笑う!』が始まる
・1969年10月4日 TBSで『8時だョ!全員集合』が始まる
・1970年 横山やすし・西川きよしが上方漫才大賞の大賞を受ける
・1973年4月7日 『8時だョ!全員集合』が視聴率50.5%を記録する(ビデオリサーチ、関東地区)
・1974年3月 志村けんがザ・ドリフターズの正式メンバーになる

公開番組と演芸ブーム

『大正テレビ寄席』は、渋谷の東急文化会館地下の映画館で客を入れて収録された。
司会の牧伸二が毎回ウクレレ漫談で幕を開け、落語家、漫才師、トリオ、コミックバンド、ものまねなどが次々に出た。
ウィキペディアは、この番組が東京の演芸を紹介して「演芸ブーム」を引っ張り、若手の登竜門になったとしている。
最高視聴率は1966年5月22日の36.4%である。
大阪では朝日放送の『てなもんや三度笠』が、ABCホールで客を入れた公開放送の形で作られた。
香川登志緒の脚本、澤田隆治の演出、藤田まことの主演で、1966年2月20日の放送は関西地区で64.8%を記録した。

トリオからコント55号へ

てんぷくトリオは三波伸介、戸塚睦夫、伊東四朗の三人で、トリオブームの中心にいた。
コント55号の萩本欽一と坂上二郎は、浅草フランス座の幕間のコントで共演した仲である。
1966年に組み、1967年2月に日劇の歌謡ショーへ笑いの担当として出たことが転機になった。
広い舞台に出たのをきっかけに動きが大きくなり、舞台を激しく動き回るのが二人の特徴になった。
台本があっても実際の演技は即興に近く、萩本がしつこく突っ込んで坂上を振り回す形が多かった。
1968年からはフジテレビの番組で人気に火がつき、1969年には日本テレビの『コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!』も始まった。

ザ・ドリフターズと土曜8時

ザ・ドリフターズは1956年に結成されたバンドが始まりで、1964年にいかりや長介が率いるコント中心のグループに変わった。
1966年のビートルズ日本公演では、前座として1分15秒の演奏をしている。
1969年10月に始まった『8時だョ!全員集合』は、毎週、各地の公会堂や市民会館から公開の生放送で届けられた。
台本どおりに作り込んだコントが特徴で、放送は中断をはさんで1985年9月まで計803回続いた。
1974年3月には荒井注に代わって志村けんが正式に加わり、1977年からはフジテレビの『ドリフ大爆笑』も始まった。

やすし・きよしの漫才

1966年5月に結成された横山やすし・西川きよしは、1967年に上方漫才大賞の新人賞、1970年に大賞を受けた。
初期は「暴力漫才」と評され、ボケとツッコミが途中で入れ替わる型破りな漫才を見せた。
動きのギャグを減らして言葉のギャグを増やし、客席を波打たせるように笑わせることを目指したとされる。
1986年に西川きよしが参議院議員に当選して以降、コンビの活動はほぼ止まった。

なぜ受けたのか

公開番組は、客席の笑い声ごと茶の間に届けた。
テレビの前の視聴者は、劇場の客と一緒に笑う感覚を家で味わえた。
コント55号やドリフが舞台を動き回る芸で人気を得たのは、言葉が分からない子どもでも笑える動きの面白さが、家族そろって見るテレビに合っていたからと考えられる。
『全員集合』が土曜8時に放送され、最高で50.5%という数字を記録したことは、家族が一台のテレビを囲んで見る時代の視聴のされ方を示している。

評価の分かれる点

『8時だョ!全員集合』の終了理由について、TBSは公開生放送の限界とギャグのやり尽くしを挙げたが、制作費、安全面、表現への規制なども背景として語られている。
やすし・きよしの芸風を「暴力漫才」とする評価と、言葉の漫才を磨いたとする評価は、時期によって見え方が違う。

くらさんの考察

この時代のテレビは、寄席や劇場を中継する道具から、テレビのための笑いを作る場所へと変わっていったと考えられる。
『大正テレビ寄席』は演芸場の延長であったが、『全員集合』は番組のために台本どおりのコントを作り込んだ。
コント55号の即興の芸と、ドリフの作り込んだ芸は、同じ「動くコント」でも作り方が正反対であり、この二つの流れは次の1980年代の番組作りにも引き継がれた。

ジージへの問いかけ

・ジージは中学生から20代の頃、コント55号とドリフのどちらをよく見ていたでしょうか。
・土曜の夜8時、家族そろって『全員集合』を見ていた記憶はありますか。
・客席の笑い声が入る番組と入らない番組では、笑いやすさが違うと思いますか。

出典

・ウィキペディア「大正テレビ寄席」 https://ja.wikipedia.org/wiki/大正テレビ寄席
・ウィキペディア「てなもんや三度笠」 https://ja.wikipedia.org/wiki/てなもんや三度笠
・ウィキペディア「てんぷくトリオ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/てんぷくトリオ
・ウィキペディア「コント55号」 https://ja.wikipedia.org/wiki/コント55号
・ウィキペディア「ザ・ドリフターズ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/ザ・ドリフターズ
・ウィキペディア「8時だョ!全員集合」 https://ja.wikipedia.org/wiki/8時だョ!全員集合
・ウィキペディア「横山やすし・西川きよし」 https://ja.wikipedia.org/wiki/横山やすし・西川きよし
・ウィキペディア「笑点」 https://ja.wikipedia.org/wiki/笑点
・ウィキペディア「漫才」 https://ja.wikipedia.org/wiki/漫才
・ウィキペディア「浅草フランス座」 https://ja.wikipedia.org/wiki/浅草フランス座

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