東京このタグの資料 19 本
- タモリ 密室芸のアングラ芸人が、昼の生放送を32年近く続けた新着No.95
タモリ(森田一義、1945〜)は、ジャズ仲間の間で知られた素人芸を赤塚不二夫に見いだされ、1975年に上京した。デタラメ外国語や形態模写の「密室芸」で深夜の人気者になったあと、1982年から2014年まで昼の生放送『笑っていいとも!』の司会を務め、ギネス世界記録に認定された。2026年も『ミュージックステーション』の司会と『ブラタモリ』を続けている。
- ビートたけし 浅草の毒舌漫才から深夜ラジオ、そして世界の映画監督へ新着No.93
ビートたけし(北野武、1947〜)は浅草フランス座で修業し、ツービートの毒舌漫才で1980年の漫才ブームの中心に立った。ブーム後は深夜ラジオとテレビのバラエティで笑いの主役になり、1989年からは映画監督として『HANA-BI』でヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受けた。2026年も討論番組の司会を続けている。
- 森田一義アワー 笑っていいとも! 新宿の昼の生放送を、タモリが31年半続けた新着No.84
フジテレビの『森田一義アワー 笑っていいとも!』は1982年10月4日から2014年3月31日まで、平日の正午に新宿のスタジオアルタから生放送された。司会のタモリは全8054回を一人で務め、生放送の単独司会としてギネス世界記録に認定された。
- オレたちひょうきん族 漫才ブームの芸人たちが、作り込まない笑いで土曜8時を奪った新着No.83
フジテレビの『オレたちひょうきん族』は1981年から1989年まで土曜20時に放送されたお笑い番組で、漫才ブームで売れた芸人たちがコントやパロディを演じた。1982年10月に初めて裏番組の『8時だョ!全員集合』を視聴率で上回り、1985年の同番組の終了につながったとされる。
- 8時だョ!全員集合 毎週の公開生放送で、ドリフのコントが土曜8時を占めた16年新着No.82
TBSの『8時だョ!全員集合』は1969年から1985年まで土曜20時に放送された、ザ・ドリフターズのコント番組である。全国のホールから毎週公開生放送を行い、1973年4月7日には関東で50.5%(ビデオリサーチ)という、バラエティ番組として史上最高とされる視聴率を記録した。
- 笑点 金曜夜席から60年、座布団を積む大喜利が日曜夕方の定番になった新着No.81
日本テレビの『笑点』は1966年5月15日に始まった演芸番組で、前半の演芸と後半の大喜利という形を60年続けている。司会は立川談志から春風亭昇太まで6代を数え、2026年には「週間のテレビコメディーパネル番組の最長放送」としてギネス世界記録に認定された。
- 芸能事務所と養成所 弟子入りから学校へ、芸人の生まれ方が変わった新着No.73
芸人は長く師匠への弟子入りで育ったが、1982年に吉本興業が養成所NSCを開いてから、学校で学んで事務所に入る道が広がった。松竹芸能、太田プロ、人力舎、ワタナベ、マセキなどの事務所もそれぞれ養成所や得意な芸を持ち、芸人の生まれ方は事務所ごとに色が違う。
- 寄席と劇場 江戸の寄席から、なんばグランド花月とルミネtheよしもとまで新着No.72
寄席は1798年に江戸で始まったとされ、いまも東京には鈴本演芸場、新宿末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場の4つの定席がある。大阪では2006年に天満天神繁昌亭が半世紀ぶりの落語の定席として開いた。漫才やコントの拠点は、吉本のなんばグランド花月(1987年)とルミネtheよしもと(2001年)である。
- 上方の笑いと東京の笑い 違いはどこにあり、どこまで言えるのか新着No.37
上方と東京の笑いには、落語の演出や身分制度、漫才の生まれた場所、喜劇の劇団の残り方など、資料で確かめられる違いがある。一方で「大阪の人はよく笑う」「関西人はユーモアがある」という見方は、心理学の調査では裏付けがはっきりしない。違いは芸の制度と歴史にあり、人の気質の違いとまでは言い切れない。
- 喜劇・新喜劇 曾我廼家とエノケンから、松竹新喜劇と吉本新喜劇へ新着No.35
芝居で笑わせる近代の喜劇は、1904年に大阪で旗揚げした曾我廼家五郎と十郎の一座に始まる。昭和の初めには浅草でエノケンとロッパの軽演劇が人気を競った。戦後の大阪では、人情喜劇の松竹新喜劇と、テレビ局の開局と同じ日に生まれた吉本新喜劇が並び立った。
- コント 浅草の幕間から土曜夜のテレビへ、そして賞レースへ新着No.33
コントは役になりきり、衣装やセットを使って笑わせる寸劇である。戦前の軽演劇と戦後の浅草のストリップ劇場の幕間で磨かれ、1960年代後半からはコント55号とザ・ドリフターズがテレビの主役になった。テレビのコント番組は減っては増えを繰り返し、2008年に始まったキングオブコントが若手の目標になっている。
- 漫才 祝いの門付け芸が、背広の二人のしゃべりに変わった新着No.32
漫才のもとは、家々を回って祝いの言葉を述べた萬歳である。1930年に横山エンタツ・花菱アチャコが背広姿でしゃべるだけの形を始め、1933年に吉本が「漫才」の字を使い始めた。ボケとツッコミは萬歳の二役に由来するとされ、今は会話のまま進むしゃべくりと、寸劇に入るコント漫才が並んでいる。
- 落語 一人で座って演じる話芸が、江戸と上方で別々に育った新着No.31
落語は江戸時代の中ごろ、京都・大坂・江戸でほぼ同じ時期に職業的な噺家が現れて始まった。東京には前座・二ツ目・真打の身分があり、上方には見台やはめもの(お囃子)を使う独自の演出がある。上方は戦後に定席を失ったが、2006年の天満天神繁昌亭で約半世紀ぶりに寄席を取り戻した。
- 1990年代のお笑い 劇場と深夜番組から出た「第三世代」がテレビの中心に座った新着No.6
1980年代に世に出たとんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンは、1990年代に自分たちの名前を冠したコント番組でゴールデンタイムの顔になり、「お笑い第三世代」と呼ばれた。90年代後半には『ボキャブラ天国』が若手のネタ見せの場となり、爆笑問題やネプチューンらが続いた。
- 1980年代のお笑い 漫才ブームが若者を客席に呼び、たけし、さんま、タモリの時代が来た新着No.5
1980年、フジテレビの『THE MANZAI』などをきっかけに漫才ブームが起き、若い客が漫才師をアイドルのように迎えた。ブームは2年ほどで落ち着いたが、そこから出たビートたけしや明石家さんまは『オレたちひょうきん族』で個人の芸人として人気を広げ、タモリは昼の生放送の顔になった。
- 1960〜70年代のお笑い 演芸ブームの公開番組から、動き回るコントの時代へ新着No.4
1960年代、客席を入れて収録する演芸番組がテレビに並び、落語家、漫才師、トリオ、コミックバンドが一度に茶の間へ届いた。演芸ブームの中からコント55号とザ・ドリフターズが現れ、舞台を動き回るコントが土曜夜の主役になった。大阪では横山やすし・西川きよしが型破りな漫才で頭角を現した。
- 戦後のお笑い 焼け跡の寄席からラジオの風刺へ、そしてテレビの時代が始まった新着No.3
焼け跡の東京と大阪で寄席が建て直され、ラジオでは風刺コントの『日曜娯楽版』が人気を集めた。1951年の民間ラジオ開局で漫才師の出番が増え、1953年にはテレビ放送が始まった。1959年には大阪でテレビ局の開局と同じ日に、のちの吉本新喜劇が幕を開けた。
- 大正・昭和戦前のお笑い 背広のしゃべくり漫才が生まれ、寄席の主役が入れ替わった新着No.2
1912年に大阪で寄席経営を始めた吉本は、昭和に入ると落語より万才に力を入れ、1933年に「漫才」の字に統一した。横山エンタツ・花菱アチャコは背広姿で日常の話題をしゃべる漫才を始め、ラジオを通じて全国に知られた。ラジオは寄席の敵か味方か、興行の側も揺れた時代である。
- 江戸・明治のお笑い 辻噺が寄席になり、門付けの萬歳が寄席の芸に変わった新着No.1
江戸時代の笑いは一人で語る話芸を中心に育ち、18世紀末に江戸で寄席が開かれて町の娯楽になった。明治には三遊亭圓朝の口演が速記本となって文章の書き方にまで影響し、大阪では玉子屋円辰が正月の門付け芸だった萬歳を寄席の掛け合いに作り替えた。
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