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No.3新着 戦後のお笑い 焼け跡の寄席からラジオの風刺へ、そしてテレビの時代が始まった

焼け跡の東京と大阪で寄席が建て直され、ラジオでは風刺コントの『日曜娯楽版』が人気を集めた。1951年の民間ラジオ開局で漫才師の出番が増え、1953年にはテレビ放送が始まった。1959年には大阪でテレビ局の開局と同じ日に、のちの吉本新喜劇が幕を開けた。

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登録日時
2026年10月23日 23:51
出典を確かめた日
2026年10月23日
分野
戦後(1945〜1959)
立場
くらさんの考察
タグ
漫才新着落語新着コント新着喜劇・新喜劇新着上方新着東京新着寄席・劇場新着ラジオ新着テレビ新着吉本興業新着放送作家新着
芸人・番組
中田ダイマル・ラケット、秋田實、三木鶏郎、日曜娯楽版、お笑い三人組、吉本新喜劇
資料の種類
事典・概説
年代
1945〜1959年

本文と出典

あらまし

戦争で多くの寄席が焼け、戦後の演芸は建て直しから始まった。
東京では新宿末廣亭が1946年に再建され、大阪では1947年に開いた戎橋松竹が、終戦直後の大阪でただ一つの寄席として知られた。
笑いの主な舞台はラジオに移り、NHKの『日曜娯楽版』が歌と風刺のコントで人気を集めた。
1951年に民間のラジオ局が開局すると、中田ダイマル・ラケットのように放送局の専属となる漫才師も現れた。
1953年にテレビ放送が始まり、1950年代の終わりには演芸の公開番組がテレビの画面に並ぶようになった。

主なできごと

・1946年3月 新宿末廣亭が北村銀太郎の手で再建される
・1947年9月 大阪に戎橋松竹が開場する
・1947年10月 NHKラジオで『日曜娯楽版』が始まる
・1948年 秋田實が若手の漫才師を集めて「MZ研進会」を結成する(翌年に京都で正式に旗揚げ)
・1951年 浅草にストリップ劇場のフランス座が開場し、幕間でコントが演じられる
・1951年9月1日 中部日本放送と新日本放送(現・MBSラジオ)が開局し、民間ラジオ放送が始まる
・1952年 花菱アチャコ主演のラジオ番組『アチャコ青春手帖』が大当たりする
・1952年6月 『日曜娯楽版』が打ち切られる
・1953年2月1日 NHKがテレビの本放送を始める
・1953年4月 三越落語会が始まる
・1953年8月28日 日本テレビが開局する
・1954年 朝日放送ラジオで中田ダイマル・ラケットの『お笑い街頭録音』が始まる
・1955年11月 NHKラジオで『お笑い三人組』が始まる(テレビ版は1956年11月から)
・1959年3月1日 毎日放送テレビの開局と同じ日に、うめだ花月で「吉本ヴァラエティ」(のちの吉本新喜劇)が始まる

焼け跡の寄席と漫才の立て直し

戎橋松竹には、のちに上方落語を背負う落語家や、中田ダイマル・ラケット、夢路いとし・喜味こいしらの漫才師が出て腕を磨いた。
東京から古今亭志ん生や桂文楽らも出演し、東西の演芸が交わる場になった。
秋田實は戦後に京都へ戻り、漫才の先行きを案じて1948年に若手を集めた勉強の会を作った。
ここからミヤコ蝶々・南都雄二や夢路いとし・喜味こいしらが育ち、秋田は「上方漫才の父」と呼ばれるようになる。

ラジオの風刺コント

『日曜娯楽版』は1947年10月から日曜の夜に放送され、三木鶏郎が出演と作曲で番組を引っ張った。
歌と歌のあいだに風刺のきいたコントを挟む「冗談音楽」が人気の柱で、永六輔や野坂昭如が作家として加わった。
政治への風刺が次第に強まって問題になり、日本が独立を回復した直後の1952年6月に打ち切られた。
後を継いだ『ユーモア劇場』も、風刺がふたたび問題視されて1954年6月に終わった。

民放ラジオと漫才師

1951年9月1日、名古屋の中部日本放送と大阪の新日本放送が本放送を始め、民間放送の時代が開いた。
中田ダイマル・ラケットは開局とともに多くのラジオ番組に出て、「3秒に1回笑わせる」という評判から「爆笑王」と呼ばれた。
1954年には朝日放送の準専属となり、1956年に完全専属になった。
1957年からはテレビでも主役を務め、ラジオで鍛えた漫才師がそのままテレビの顔になった。
東京ではNHKの『お笑い三人組』が、ラジオに続いてテレビでも公開の生放送を行った。

テレビの始まりと演芸

1953年2月にNHK、8月に日本テレビが放送を始めた。
この年にテレビを持っていた家はおよそ900世帯で、受像機は約24万円、大学卒の初任給は約1万円だったとされる。
日本テレビは開局前に東京の駅前や公園など55か所に220台の街頭テレビを置き、人々は外で画面を囲んだ。
1959年3月1日、大阪では毎日放送テレビが開局し、同じ日に吉本がうめだ花月を開いて「吉本ヴァラエティ」を始めた。
舞台はそのまま毎日放送で中継され、劇場とテレビ局が組んで笑いを届ける形ができた。

聞くための落語会

東京の落語では、寄席とは別に、落語だけを並べて大きな演目を最後まで聞かせる「ホール落語」が始まった。
1953年4月に三越落語会、1956年5月に東横落語会、1959年7月に東京落語会が始まっている。
笑いを気軽に楽しむ寄席に対し、落語を鑑賞する場が別にできたことになる。

なぜ受けたのか

戦後の数年間、庶民がいちばん手軽に聞けた娯楽はラジオだった。
テレビの受像機が大卒初任給の20倍以上もした時代に、家で聞けるラジオの漫才や風刺コントは身近な笑いであった。
『日曜娯楽版』の風刺が人気を集めたのは、戦時中には許されなかった政治への皮肉を、電波で聞けるようになったからだと考えられる。
民放ラジオが開局とともに漫才師を多く起用したことで、漫才師は寄席の外にも出番を得た。

評価の分かれる点

戎橋松竹の閉場は、1956年とする資料と1957年1月とする資料がある。
浅草フランス座の出身者としてよく名が挙がる芸人の在籍時期は、ウィキペディアでも出典が十分でないと注記されている。

くらさんの考察

この時代は、笑いの舞台が寄席から放送へ移る途中にあたると考えられる。
大阪では、漫才師がラジオ局の専属となり、吉本は劇場の開場をテレビ局の開局に合わせた。
戦前に吉本がラジオ出演を禁じていたことと比べると、興行の側が放送を取り込む方向へ大きく向きを変えたことが分かる。
一方、東京ではホール落語が生まれ、落語の一部は「放送で広く聞かせる笑い」とは別の、聞き込む芸の道を歩み始めた。

ジージへの問いかけ

・ジージが初めてテレビを見たのは、街頭テレビでしょうか、それとも近所の家だったでしょうか。
・子どもの頃、ラジオで聞いて覚えている演芸番組はありますか。
・風刺のきいた笑いは、今のテレビより昔のラジオのほうが多かったと思いますか。

出典

・ウィキペディア「新宿末廣亭」 https://ja.wikipedia.org/wiki/新宿末廣亭
・ウィキペディア「戎橋松竹」 https://ja.wikipedia.org/wiki/戎橋松竹
・ウィキペディア「日曜娯楽版」 https://ja.wikipedia.org/wiki/日曜娯楽版
・ウィキペディア「秋田實」 https://ja.wikipedia.org/wiki/秋田實
・ウィキペディア「中田ダイマル・ラケット」 https://ja.wikipedia.org/wiki/中田ダイマル・ラケット
・ウィキペディア「民間放送」 https://ja.wikipedia.org/wiki/民間放送
・ウィキペディア「花菱アチャコ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/花菱アチャコ
・ウィキペディア「お笑い三人組」 https://ja.wikipedia.org/wiki/お笑い三人組
・ウィキペディア「街頭テレビ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/街頭テレビ
・ウィキペディア「吉本新喜劇」 https://ja.wikipedia.org/wiki/吉本新喜劇
・ウィキペディア「ホール落語」 https://ja.wikipedia.org/wiki/ホール落語
・ウィキペディア「浅草フランス座」 https://ja.wikipedia.org/wiki/浅草フランス座

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