ラジオこのタグの資料 10 本

  1. タモリ 密室芸のアングラ芸人が、昼の生放送を32年近く続けた新着No.95

    タモリ(森田一義、1945〜)は、ジャズ仲間の間で知られた素人芸を赤塚不二夫に見いだされ、1975年に上京した。デタラメ外国語や形態模写の「密室芸」で深夜の人気者になったあと、1982年から2014年まで昼の生放送『笑っていいとも!』の司会を務め、ギネス世界記録に認定された。2026年も『ミュージックステーション』の司会と『ブラタモリ』を続けている。

  2. 明石家さんま 落語家の弟子からテレビのしゃべりの頂点へ新着No.94

    明石家さんま(1955〜)は笑福亭松之助に入門した落語家の出だが、形態模写とトークでテレビに活路を開き、『オレたちひょうきん族』で全国区になった。1999年には「日本で最も露出の多いテレビスター」としてギネス世界記録に認定された。70歳を過ぎた2026年も、関西と東京で冠番組の司会を続けている。

  3. ビートたけし 浅草の毒舌漫才から深夜ラジオ、そして世界の映画監督へ新着No.93

    ビートたけし(北野武、1947〜)は浅草フランス座で修業し、ツービートの毒舌漫才で1980年の漫才ブームの中心に立った。ブーム後は深夜ラジオとテレビのバラエティで笑いの主役になり、1989年からは映画監督として『HANA-BI』でヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受けた。2026年も討論番組の司会を続けている。

  4. 桂米朝 滅びかけた上方落語を、古老の聞き書きとホール落語で立て直した新着No.91

    3代目桂米朝(1925〜2015)は、戦後に衰えていた上方落語を、文献と古老からの聞き取りで演目を掘り起こし、独演会やホール落語で客を育てて立て直した落語家である。1996年に人間国宝、2009年に落語家として初めて文化勲章を受けた。研究者としての仕事と、演者としての仕事が一人の中で結びついていた点に特色がある。

  5. 放送作家とテレビ局 台本の外側で笑いを組み立てる裏方たち新着No.74

    放送作家は、ドラマ以外のテレビやラジオの番組で企画と構成を担う仕事である。1953年のテレビ放送の開始とともに、塚田茂や青島幸男らが番組を組み立て、のちに高田文夫、高須光聖、鈴木おさむらが芸人と組んで笑いの番組を作った。テレビ局のプロデューサーでは、フジテレビの横澤彪が漫才ブームを支えた。

  6. 上方漫才大賞からTHE SECONDまで 年齢や芸歴や性別で分けて競う、もう一つの賞新着No.54

    M-1グランプリのほかにも、芸歴を問わない上方漫才大賞(1966年〜)、新人の登竜門のNHK新人演芸大賞(1956年〜)、女性芸人の大会THE W(2017年〜)、結成16年以上の漫才師の大会THE SECOND(2023年〜)がある。2025年のTHE Wはニッチェ、2026年のTHE SECONDはトットが優勝した。

  7. 講談・浪曲・漫談 落語の隣で語り継がれてきた話芸新着No.36

    講談は張り扇で釈台を叩きながら軍記や武勇伝を読む芸、浪曲は三味線の伴奏で節をつけて語る芸である。どちらも明治から昭和の初めに全盛を迎え、浪曲はラジオで最も好まれる番組になったが、戦後のテレビの時代に衰えた。近年は講談の神田伯山、浪曲の玉川太福らが新しい客を呼び、浪曲から初の人間国宝も出た。

  8. 1980年代のお笑い 漫才ブームが若者を客席に呼び、たけし、さんま、タモリの時代が来た新着No.5

    1980年、フジテレビの『THE MANZAI』などをきっかけに漫才ブームが起き、若い客が漫才師をアイドルのように迎えた。ブームは2年ほどで落ち着いたが、そこから出たビートたけしや明石家さんまは『オレたちひょうきん族』で個人の芸人として人気を広げ、タモリは昼の生放送の顔になった。

  9. 戦後のお笑い 焼け跡の寄席からラジオの風刺へ、そしてテレビの時代が始まった新着No.3

    焼け跡の東京と大阪で寄席が建て直され、ラジオでは風刺コントの『日曜娯楽版』が人気を集めた。1951年の民間ラジオ開局で漫才師の出番が増え、1953年にはテレビ放送が始まった。1959年には大阪でテレビ局の開局と同じ日に、のちの吉本新喜劇が幕を開けた。

  10. 大正・昭和戦前のお笑い 背広のしゃべくり漫才が生まれ、寄席の主役が入れ替わった新着No.2

    1912年に大阪で寄席経営を始めた吉本は、昭和に入ると落語より万才に力を入れ、1933年に「漫才」の字に統一した。横山エンタツ・花菱アチャコは背広姿で日常の話題をしゃべる漫才を始め、ラジオを通じて全国に知られた。ラジオは寄席の敵か味方か、興行の側も揺れた時代である。

ほかのタグ