← 大正・昭和戦前(1912〜1945)一覧へ戻る

No.2新着 大正・昭和戦前のお笑い 背広のしゃべくり漫才が生まれ、寄席の主役が入れ替わった

1912年に大阪で寄席経営を始めた吉本は、昭和に入ると落語より万才に力を入れ、1933年に「漫才」の字に統一した。横山エンタツ・花菱アチャコは背広姿で日常の話題をしゃべる漫才を始め、ラジオを通じて全国に知られた。ラジオは寄席の敵か味方か、興行の側も揺れた時代である。

𝕏 でポストする

登録日時
2026年10月23日 23:51
出典を確かめた日
2026年10月23日
分野
大正・昭和戦前(1912〜1945)
立場
くらさんの考察
タグ
漫才新着落語新着喜劇・新喜劇新着上方新着東京新着寄席・劇場新着ラジオ新着吉本興業新着
芸人・番組
横山エンタツ、花菱アチャコ、吉本せい、秋田實、初代桂春団治、榎本健一
資料の種類
事典・概説
年代
1912〜1945年

本文と出典

あらまし

大正から昭和の戦前にかけて、寄席の主役は落語から漫才へ移っていった。
明治末に大阪の寄席に入った萬歳は「万才」と書かれ、昭和の初めに吉本が「漫才」の字に統一した。
横山エンタツ・花菱アチャコは、着物と鼓の代わりに背広を着て、会話だけで笑わせる「しゃべくり漫才」を始めた。
1925年に始まったラジオ放送は、寄席に客を呼ぶ道具にも、客を奪う相手にもなりえた。
東京では浅草で榎本健一(エノケン)らの喜劇が人気を集め、戦争が始まると芸人は戦地の慰問にも駆り出された。

主なできごと

・1912年 吉本せいと吉本吉兵衛(泰三)の夫妻が大阪天満の寄席「第二文芸館」を買い取り、寄席経営を始める
・1913年 大阪に「吉本興行部」を設ける
・1917年 日本チャップリン・梅廼家ウグイスが東京で初めて万才を演じる
・1919年 横山エンタツと花菱アチャコが一座を組み、幕間でしゃべくりを試すが不評に終わる
・1923年 関東大震災を機に東京の落語家が合同し、東京落語協会(現・落語協会)ができる
・1925年 ラジオ放送が始まる(東京で3月22日に仮放送、大阪で6月1日に仮放送)
・1929年 榎本健一らが浅草でカジノ・フォーリーを旗揚げする
・1930年 エンタツが吉本に入り、林正之助の勧めでアチャコと再びコンビを組む
・1930年12月 吉本がラジオに無断で出た初代桂春団治の家財を差し押さえる
・1933年1月 吉本の『吉本演藝通信』が「漫才」への表記の統一を打ち出す
・1934年 秋田實が吉本に入社する。エンタツ・アチャコはこの年にコンビを解消する
・1935年 東京の約80組が「帝都漫才組合」を結成する
・1938年1月 吉本と朝日新聞社が戦地慰問の「わらわし隊」を送り出す

吉本の寄席経営

吉本の始まりは、1912年4月に吉本せいと夫の吉兵衛が天満の寄席を買い取ったことにある。
翌年には吉本興行部を設け、寄席の経営を広げていった。
せいは1932年から1948年まで社長を務め、弟の林正之助が戦後に社長を継いだ。
吉本の社内資料には1932年3月に「漫才」の字が営業品目として現れ、1933年1月には社内の通信で「漫才」への統一が打ち出された。
1934年4月に東京の新橋演舞場で開かれた「特選漫才大会」をきっかけに、表記の統一が進んだ。

エンタツ・アチャコのしゃべくり

横山エンタツ(1896〜1971)と花菱アチャコ(1897〜1974)は、1919年に一度組んで幕間でしゃべくりを試したが、そのときは受けなかった。
1930年に吉本の林正之助の勧めで再び組み、背広姿で舞台に立った。
ウィキペディアは、漫才師として初めて背広姿で舞台に上がったのはエンタツだとし、それを秋田實の助言によるものとしている。
結成年を1930年とする事典と1931年とする事典がある。
野球の早慶戦を題材にした自作の「早慶戦」は大当たりし、事典は「吉本漫才王国の基礎をつくった」と書く。
ブリタニカの記述では、二人の漫才はインテリ層の支持を受け、ラジオを通じて全国的な人気者になった。
コンビは1934年、アチャコの中耳炎による入院中に解消された。
その後も二人は1936年の映画『あきれた連中』をはじめ、映画で組んで共演した。

漫才作家の誕生

秋田實(1905〜1977)は、新聞記者の白石凡の紹介でエンタツと知り合い、漫才の台本を書くようになった。
二人は、だれでも共感できる無邪気な話がよいという考えで一致したとされる。
秋田は1934年に吉本に入社し、アチャコを含むほかの漫才師にも台本の手がかりを与えた。
漫才が、芸人の即興や持ちネタだけでなく、作者が書いた台本で演じられる芸になったことになる。

ラジオと寄席の綱引き

吉本は、ラジオでただで芸が聞けると寄席に客が来なくなると考え、所属の芸人がラジオに出ることを禁じていた。
専属の契約には、指定以外の場所に出れば借金を一度に返し、損害賠償も負うという約束が付いていたとされる。
落語家の初代桂春団治がこれを破ってラジオに出ると、吉本は1930年12月9日に春団治の家財を差し押さえた。
同じ1930年代に、エンタツ・アチャコの漫才はラジオで全国に広まっている。
ラジオを締め出すだけでは済まなくなった経過が、二つの出来事に表れている。

浅草の喜劇と戦時の慰問

東京では浅草が笑いの中心だった。
浅草オペラの舞台に立っていた榎本健一は1929年にカジノ・フォーリーを旗揚げし、のちに松竹の専属となって浅草の劇場で喜劇を常打ちした。
日中戦争が始まると、吉本は朝日新聞社と組んで1938年1月に「わらわし隊」を中国大陸へ送った。
名は陸海軍の戦闘機部隊の愛称「荒鷲隊」のもじりで、第1回には柳家金語楼、花菱アチャコ、横山エンタツ、ミスワカナ・玉松一郎らが加わった。

なぜ受けたのか

エンタツ・アチャコの漫才が新しかったのは、話題を日常に置いたことにある。
萬歳の祝い言や歌、鳴り物を使わず、野球の試合のような誰もが知る話題を、背広を着た二人が会話で転がした。
野球を聞きかじった勤め人や学生がそのまま笑える作りだったことが、インテリ層の支持につながったと考えられる。
会話だけで成り立つ芸は、画面のないラジオとも相性がよかった。

評価の分かれる点

エンタツ・アチャコの結成年は、1930年とする資料と1931年とする資料がある。
背広姿のしゃべくりを誰が発案したかも、エンタツ本人の工夫とする書き方と、秋田實の助言とする書き方が混ざっている。
しゃべくり漫才の始まりを二人だけに帰すことにも注意がいる。
ウィキペディアの「玉子屋円辰」の項は、円辰の二人芸を軽口とともにしゃべくり漫才の源流としている。

くらさんの考察

この時代の変化は三つが重なって起きたと考えられる。
吉本という興行会社が万才を寄席の看板に据え、秋田實のような作者が台本を書き、ラジオが寄席の外にまで声を運んだ。
どれか一つが欠けても、漫才が4年ほどで全国に知られる芸にはならなかったと考えられる。
一方、春団治の差し押さえが示すように、興行の側は放送を最初から歓迎したわけではない。
放送に出るか出ないかをめぐる綱引きは、のちのテレビや配信でも形を変えて繰り返されている。

ジージへの問いかけ

・ジージが子どもの頃、エンタツやアチャコの名前を聞いたことはあったでしょうか。
・漫才といえば着物姿か背広姿か、ジージの記憶ではどちらが先に浮かびますか。
・ラジオで聞く漫才と、劇場やテレビで見る漫才は、笑いどころが違うと思いますか。

出典

・ウィキペディア「漫才」 https://ja.wikipedia.org/wiki/漫才
・ウィキペディア「吉本せい」 https://ja.wikipedia.org/wiki/吉本せい
・ウィキペディア「横山エンタツ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/横山エンタツ
・ウィキペディア「花菱アチャコ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/花菱アチャコ
・コトバンク「横山えんたつ」 https://kotobank.jp/word/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E3%81%88%E3%82%93%E3%81%9F%E3%81%A4-3191042
・ウィキペディア「秋田實」 https://ja.wikipedia.org/wiki/秋田實
・サライ.jp「涙を流して苦しむほどに客を笑わせたい」(初代・桂春団治)【漱石と明治人のことば351】 https://serai.jp/hobby/297691
・ウィキペディア「NHK大阪放送局」 https://ja.wikipedia.org/wiki/NHK大阪放送局
・ウィキペディア「榎本健一」 https://ja.wikipedia.org/wiki/榎本健一
・ウィキペディア「わらわし隊」 https://ja.wikipedia.org/wiki/わらわし隊
・ウィキペディア「落語」 https://ja.wikipedia.org/wiki/落語

この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージがお笑いQAでくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。