漫才このタグの資料 17 本

  1. ダウンタウン NSC1期生が漫才とコントの「間」を変えた新着No.96

    ダウンタウンは、吉本興業の養成所 NSC の1期生、松本人志と浜田雅功が1982年に組んだコンビである。ゆったりした間の漫才と、関係性で笑わせるコントで1990年代のテレビの笑いの中心になった。2024年に松本が週刊誌報道を受けて活動を休止し、2025年11月に有料配信「DOWNTOWN+」で再開したが、2026年10月に術後の体調から休養を続けると伝えている。

  2. ビートたけし 浅草の毒舌漫才から深夜ラジオ、そして世界の映画監督へ新着No.93

    ビートたけし(北野武、1947〜)は浅草フランス座で修業し、ツービートの毒舌漫才で1980年の漫才ブームの中心に立った。ブーム後は深夜ラジオとテレビのバラエティで笑いの主役になり、1989年からは映画監督として『HANA-BI』でヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受けた。2026年も討論番組の司会を続けている。

  3. 横山やすし・西川きよし 「やすきよ」が漫才の型を崩し、ブームの頂点に立った新着No.92

    横山やすしと西川きよしは1966年に組んだ吉本興業の漫才コンビで、上方漫才大賞の大賞を4回受け、1980年代初めの漫才ブームでは東西のリーダー格だった。ボケとツッコミが途中で入れ替わる型破りの漫才は、後の世代に影響を与えたとされる。1986年のきよしの参院当選と、1989年のやすしの吉本解雇でコンビは事実上幕を下ろした。

  4. 芸能事務所と養成所 弟子入りから学校へ、芸人の生まれ方が変わった新着No.73

    芸人は長く師匠への弟子入りで育ったが、1982年に吉本興業が養成所NSCを開いてから、学校で学んで事務所に入る道が広がった。松竹芸能、太田プロ、人力舎、ワタナベ、マセキなどの事務所もそれぞれ養成所や得意な芸を持ち、芸人の生まれ方は事務所ごとに色が違う。

  5. 寄席と劇場 江戸の寄席から、なんばグランド花月とルミネtheよしもとまで新着No.72

    寄席は1798年に江戸で始まったとされ、いまも東京には鈴本演芸場、新宿末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場の4つの定席がある。大阪では2006年に天満天神繁昌亭が半世紀ぶりの落語の定席として開いた。漫才やコントの拠点は、吉本のなんばグランド花月(1987年)とルミネtheよしもと(2001年)である。

  6. 吉本興業の歩み 天満の寄席一軒から、漫才と新喜劇とテレビの会社へ新着No.71

    吉本興業は1912年、吉本吉兵衛とせいの夫婦が大阪天満の寄席を買い取って始まった。寄席を「花月」の名でまとめ、エンタツ・アチャコの漫才で客をつかみ、戦後は映画館経営を経て1959年に演芸へ戻った。2009年のTOBで上場をやめ、2019年に吉本興業ホールディングスとなった。

  7. 上方漫才大賞からTHE SECONDまで 年齢や芸歴や性別で分けて競う、もう一つの賞新着No.54

    M-1グランプリのほかにも、芸歴を問わない上方漫才大賞(1966年〜)、新人の登竜門のNHK新人演芸大賞(1956年〜)、女性芸人の大会THE W(2017年〜)、結成16年以上の漫才師の大会THE SECOND(2023年〜)がある。2025年のTHE Wはニッチェ、2026年のTHE SECONDはトットが優勝した。

  8. M-1グランプリ 島田紳助と吉本の企画から、1万組を超える漫才師が目指す年末の大会へ新着No.51

    M-1グランプリは2001年に島田紳助と吉本興業の谷良一が立ち上げた漫才の大会で、2010年にいったん終わり、2015年に結成15年以内へ資格を広げて復活した。2025年の第21回は11,521組が参加してたくろうが優勝し、2026年の第22回は過去最多の12,663組で予選が続いている。

  9. 上方の笑いと東京の笑い 違いはどこにあり、どこまで言えるのか新着No.37

    上方と東京の笑いには、落語の演出や身分制度、漫才の生まれた場所、喜劇の劇団の残り方など、資料で確かめられる違いがある。一方で「大阪の人はよく笑う」「関西人はユーモアがある」という見方は、心理学の調査では裏付けがはっきりしない。違いは芸の制度と歴史にあり、人の気質の違いとまでは言い切れない。

  10. 漫才 祝いの門付け芸が、背広の二人のしゃべりに変わった新着No.32

    漫才のもとは、家々を回って祝いの言葉を述べた萬歳である。1930年に横山エンタツ・花菱アチャコが背広姿でしゃべるだけの形を始め、1933年に吉本が「漫才」の字を使い始めた。ボケとツッコミは萬歳の二役に由来するとされ、今は会話のまま進むしゃべくりと、寸劇に入るコント漫才が並んでいる。

  11. 2000年以降のお笑い 賞レースとネタ番組が若手を押し上げ、笑いの舞台は配信にも広がった新着No.7

    2001年に始まったM-1グランプリを皮切りに、漫才、コント、ピン芸の賞レースが年中行事になり、2000年代にはネタ番組のブームも起きた。2010年代後半から芸人の活動はYouTubeや有料配信に広がり、M-1グランプリの出場者数は2025年、2026年と続けて過去最多を更新した。

  12. 1990年代のお笑い 劇場と深夜番組から出た「第三世代」がテレビの中心に座った新着No.6

    1980年代に世に出たとんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンは、1990年代に自分たちの名前を冠したコント番組でゴールデンタイムの顔になり、「お笑い第三世代」と呼ばれた。90年代後半には『ボキャブラ天国』が若手のネタ見せの場となり、爆笑問題やネプチューンらが続いた。

  13. 1980年代のお笑い 漫才ブームが若者を客席に呼び、たけし、さんま、タモリの時代が来た新着No.5

    1980年、フジテレビの『THE MANZAI』などをきっかけに漫才ブームが起き、若い客が漫才師をアイドルのように迎えた。ブームは2年ほどで落ち着いたが、そこから出たビートたけしや明石家さんまは『オレたちひょうきん族』で個人の芸人として人気を広げ、タモリは昼の生放送の顔になった。

  14. 1960〜70年代のお笑い 演芸ブームの公開番組から、動き回るコントの時代へ新着No.4

    1960年代、客席を入れて収録する演芸番組がテレビに並び、落語家、漫才師、トリオ、コミックバンドが一度に茶の間へ届いた。演芸ブームの中からコント55号とザ・ドリフターズが現れ、舞台を動き回るコントが土曜夜の主役になった。大阪では横山やすし・西川きよしが型破りな漫才で頭角を現した。

  15. 戦後のお笑い 焼け跡の寄席からラジオの風刺へ、そしてテレビの時代が始まった新着No.3

    焼け跡の東京と大阪で寄席が建て直され、ラジオでは風刺コントの『日曜娯楽版』が人気を集めた。1951年の民間ラジオ開局で漫才師の出番が増え、1953年にはテレビ放送が始まった。1959年には大阪でテレビ局の開局と同じ日に、のちの吉本新喜劇が幕を開けた。

  16. 大正・昭和戦前のお笑い 背広のしゃべくり漫才が生まれ、寄席の主役が入れ替わった新着No.2

    1912年に大阪で寄席経営を始めた吉本は、昭和に入ると落語より万才に力を入れ、1933年に「漫才」の字に統一した。横山エンタツ・花菱アチャコは背広姿で日常の話題をしゃべる漫才を始め、ラジオを通じて全国に知られた。ラジオは寄席の敵か味方か、興行の側も揺れた時代である。

  17. 江戸・明治のお笑い 辻噺が寄席になり、門付けの萬歳が寄席の芸に変わった新着No.1

    江戸時代の笑いは一人で語る話芸を中心に育ち、18世紀末に江戸で寄席が開かれて町の娯楽になった。明治には三遊亭圓朝の口演が速記本となって文章の書き方にまで影響し、大阪では玉子屋円辰が正月の門付け芸だった萬歳を寄席の掛け合いに作り替えた。

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