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No.1新着 江戸・明治のお笑い 辻噺が寄席になり、門付けの萬歳が寄席の芸に変わった

江戸時代の笑いは一人で語る話芸を中心に育ち、18世紀末に江戸で寄席が開かれて町の娯楽になった。明治には三遊亭圓朝の口演が速記本となって文章の書き方にまで影響し、大阪では玉子屋円辰が正月の門付け芸だった萬歳を寄席の掛け合いに作り替えた。

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登録日時
2026年10月23日 23:51
出典を確かめた日
2026年10月23日
分野
江戸・明治(〜1912)
立場
くらさんの考察
タグ
落語新着講談・浪曲新着漫才新着寄席・劇場新着東京新着上方新着
芸人・番組
安楽庵策伝、初代三笑亭可楽、三遊亭圓朝、玉子屋円辰
資料の種類
事典・概説
年代
1623〜1912年

本文と出典

あらまし

江戸時代の笑いは、一人で語る話芸を中心に育った。
17世紀前半に笑い話を集めた本が編まれ、元禄期には京都、大坂、江戸の三都で、人前で噺を聞かせて暮らす者が現れた。
18世紀末に江戸で寄席が開かれると、落語、講談、音曲、手品などを毎日のように聞ける場所が町の中にできた。
一方、正月に家々を回って祝い言を述べる萬歳は、明治に入って寄席の芸に姿を変え、のちの漫才の土台になった。

主なできごと

・1623年 安楽庵策伝が笑話集『醒睡笑』をまとめる
・1688〜1704年(元禄期) 京都の露の五郎兵衛と大坂の米沢彦八が辻噺を、江戸の鹿野武左衛門が座敷噺を始める
・1704〜1711年(宝永年間) 講釈が常設の場所で演じられるようになる
・1786年 烏亭焉馬が江戸で新作の落とし噺の会を開く
・1798年 初代三笑亭可楽が江戸の下谷で寄席を開く
・1842年 天保の改革で江戸の寄席が大幅に減らされる
・1872年 三遊亭圓朝が道具を使う芝居噺をやめ、素噺に転じる
・1876年 東京府が芸人に鑑札を出して課税し、圓朝ら3人が頭取に選ばれる
・1897年頃 玉子屋円辰が大阪の寄席で萬歳と音頭を演じ始める
・1903年 落語が初めてレコードに録音される
・1905年 玉子屋円辰が大阪天満宮の近くに常設の小屋を開く(看板は「名古屋萬歳」、のち「関西萬歳」)

噺家と寄席の始まり

『醒睡笑』を著した策伝は「落語の祖」とされる。
元禄期の京都では露の五郎兵衛が四条河原などの大道で、大坂では米沢彦八が生玉神社の境内で、通りがかりの客に噺を聞かせた。
屋外で演じる「辻噺」であり、ここが職業としての噺家の始まりとされる。
江戸の鹿野武左衛門は、座敷に呼ばれて演じる「座敷噺」を始めたが、のちに流罪となり、江戸の座敷噺はいったん下火になった。
江戸で噺が再び盛り上がるのは18世紀後半である。
1786年に烏亭焉馬が新作の落とし噺の会を開いて評判を取り、1791年には大坂の岡本万作が江戸で寄席興行を行った。
1798年、初代三笑亭可楽が下谷の神社の境内で寄席を開く。
当初は「寄せ場」と呼ばれた。
文化年間(19世紀初め)には常設の建物が現れ、寛政期より後は落語が寄席の出し物の中心になった。

町の娯楽としての寄席

天保年間の江戸には211軒の寄席があり、湯屋の数に並ぶほどだったとされる。
1842年の天保の改革で市中15軒と寺社境内9軒に絞られたが、水野忠邦の失脚後にふたたび増えた。
明治の東京でも寄席は町の娯楽であり続け、1906年末の様子を伝える案内書には、東京市内と近郊に141軒が載っている。
内訳は講談の席24、落語と色物の席75、浪花節の席30、義太夫の席3である。
落語以外の音曲、物まね、手品、紙切りなどは「色物」と呼ばれ、落語の合間を埋めた。

講談と圓朝、話芸が文字になる

講談は、室町時代から行われた「太平記読み」などを源流にもつ。
宝永年間に常設の場所で「講釈」として演じられるようになり、幕末から明治にかけて最盛期を迎え、明治に入って「講談」と呼ばれるようになった。
明治には政治や新聞記事を題材にした講談も生まれ、明治後期には立川文庫などの講談本がよく読まれた。
その売れ行きが出版社の講談社の成長を助けたとされる。
落語では三遊亭圓朝(1839〜1900)が幕末から明治にかけて活躍した。
『怪談牡丹燈籠』『真景累ヶ淵』などの長い続き物を自作し、1872年には道具仕立ての芝居噺をやめて、扇子と手拭いで語る素噺に転じた。
圓朝の口演を筆記した本は、二葉亭四迷が坪内逍遥の勧めで『浮雲』の文体を作るときの手本にしたとされ、話し言葉に近い文章(言文一致)の成立に影響を与えた。

萬歳が寄席に入る

萬歳は平安時代には芸能として成立していた祝福の芸で、太夫と、鼓を持つ才蔵の二人一組で正月に家々を回った。
江戸時代、三河萬歳は三河出身の徳川家に優遇された。
明治には各地の名を冠した萬歳が現れ、尾張萬歳は娯楽の色を強めて一年中興行する芸になった。
大阪では河内出身の玉子屋円辰(1865〜1944)が1897年頃から寄席で萬歳と音頭を演じ、名古屋で習った萬歳の形に盆踊りの歌や三曲萬歳を取り込んで、二人で演じる形を作った。
明治末期には、元の萬歳と区別するために「万才」の字を看板などに使ったとされる。

なぜ受けたのか

寄席は安く、近くにあった。
講談の席の木戸銭は48文が相場で、駆け出しの演者の席はもっと安く、子どもは半額だったと『守貞謾稿』に記録がある。
江戸後期には湯屋と並ぶほどの数があり、仕事帰りに立ち寄れる距離にあった。
噺家は一人で何役も演じ分けるので、舞台装置も大勢の役者もいらない。
小さな座敷でも成り立つ芸だったことが、町ごとに寄席が置ける理由になったと考えられる。
明治の講談が政治や新聞の話題を扱ったように、寄席は新しい出来事を耳で知る場所も兼ねていた。

評価の分かれる点

寄席の数は資料によって大きく違う。
ウィキペディアの「寄席」の項は天保年間に211軒、幕末に約700軒とし、「落語」の項は文政末に125軒、安政年間に170軒とする。
常設の席だけを数えるのか、寺社境内や臨時の席まで含めるのかが揃っていない可能性がある。
「落語の祖」を策伝に置くか、職業噺家の始まりである元禄期の3人に置くかは、何をもって落語とするかで変わる。
笑話集を編んだ人と、客の前で演じて暮らしを立てた人は、役割が違うからである。
漫才の源流を萬歳だけに求めるかどうかも分かれる。
ウィキペディアの「玉子屋円辰」の項は、のちのしゃべくり漫才の源流として、萬歳とあわせて寄席芸の「軽口」を挙げている。

くらさんの考察

江戸から明治の笑いは、一人の声と所作で場面を立ち上げる芸が主流だったと考えられる。
落語も講談も演者は一人であり、客は語りを聞きながら情景を頭の中で組み立てた。
萬歳は最初から二人の掛け合いで成り立つ芸であり、明治の大阪でそれが寄席に入ったことが、のちに「一人の話芸」と「二人の掛け合い」が並び立つ出発点になったと考えられる。
圓朝の速記本が小説の文体に影響したことは、話芸が耳で聞かれるだけでなく、目で読まれる段階に入ったことを示している。

ジージへの問いかけ

・ジージが子どもの頃、育った土地で寄席や演芸を生で見る機会はあったでしょうか。
・正月に家々を回る萬歳や獅子舞を、実際に見た覚えはありますか。
・落語を初めて聞いたのは、ラジオ、寄席、テレビのどれだったと思いますか。

出典

・ウィキペディア「落語」 https://ja.wikipedia.org/wiki/落語
・ウィキペディア「寄席」 https://ja.wikipedia.org/wiki/寄席
・ウィキペディア「講談」 https://ja.wikipedia.org/wiki/講談
・ウィキペディア「萬歳」 https://ja.wikipedia.org/wiki/萬歳
・ウィキペディア「玉子屋円辰」 https://ja.wikipedia.org/wiki/玉子屋円辰
・ウィキペディア「三遊亭圓朝」 https://ja.wikipedia.org/wiki/三遊亭圓朝
・ウィキペディア「漫才」 https://ja.wikipedia.org/wiki/漫才

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