名作を読む笑いが残る番組には、わけがある
番組・舞台を1つずつ、生まれたいきさつ、当時の受け止め、なぜ受けたのかを調べました。ネタや台本は載せていません。
No.81笑点立川談志1966年〜金曜夜席から60年、座布団を積む大喜利が日曜夕方の定番になったNo.828時だョ!全員集合ザ・ドリフターズ1969〜1985年毎週の公開生放送で、ドリフのコントが土曜8時を占めた16年No.83オレたちひょうきん族ビートたけし1981〜1989年漫才ブームの芸人たちが、作り込まない笑いで土曜8時を奪ったNo.84森田一義アワー 笑っていいとも!タモリ1982〜2014年新宿の昼の生放送を、タモリが31年半続けたNo.85ダウンタウンのごっつええ感じ今田耕司1991〜1997年日曜8時にコントの連作を並べ、野球中継の差し替えで終わったNo.86吉本新喜劇の舞台よしもと新喜劇(毎日放送)1959年〜毎週の新作、土曜昼のテレビ中継、座長が週ごとに受け持つ仕組み
芸人と作り手
- 桂米朝滅びかけた上方落語を、古老の聞き書きとホール落語で立て直した3代目桂米朝(1925〜2015)は、戦後に衰えていた上方落語を、文献と古老からの聞き取りで演目を掘り起こし、独演会やホール落語で客を育てて立て直した落語家である。1996年に人間国宝、2009年に落語家として初めて文化勲章を受けた。研究者としての仕事と、演者としての仕事が一人の中で結びついていた点に特色がある。
- 横山やすし・西川きよし「やすきよ」が漫才の型を崩し、ブームの頂点に立った横山やすしと西川きよしは1966年に組んだ吉本興業の漫才コンビで、上方漫才大賞の大賞を4回受け、1980年代初めの漫才ブームでは東西のリーダー格だった。ボケとツッコミが途中で入れ替わる型破りの漫才は、後の世代に影響を与えたとされる。1986年のきよしの参院当選と、1989年のやすしの吉本解雇でコンビは事実上幕を下ろした。
- ビートたけし浅草の毒舌漫才から深夜ラジオ、そして世界の映画監督へビートたけし(北野武、1947〜)は浅草フランス座で修業し、ツービートの毒舌漫才で1980年の漫才ブームの中心に立った。ブーム後は深夜ラジオとテレビのバラエティで笑いの主役になり、1989年からは映画監督として『HANA-BI』でヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受けた。2026年も討論番組の司会を続けている。
- 明石家さんま落語家の弟子からテレビのしゃべりの頂点へ明石家さんま(1955〜)は笑福亭松之助に入門した落語家の出だが、形態模写とトークでテレビに活路を開き、『オレたちひょうきん族』で全国区になった。1999年には「日本で最も露出の多いテレビスター」としてギネス世界記録に認定された。70歳を過ぎた2026年も、関西と東京で冠番組の司会を続けている。
- タモリ密室芸のアングラ芸人が、昼の生放送を32年近く続けたタモリ(森田一義、1945〜)は、ジャズ仲間の間で知られた素人芸を赤塚不二夫に見いだされ、1975年に上京した。デタラメ外国語や形態模写の「密室芸」で深夜の人気者になったあと、1982年から2014年まで昼の生放送『笑っていいとも!』の司会を務め、ギネス世界記録に認定された。2026年も『ミュージックステーション』の司会と『ブラタモリ』を続けている。
- ダウンタウンNSC1期生が漫才とコントの「間」を変えたダウンタウンは、吉本興業の養成所 NSC の1期生、松本人志と浜田雅功が1982年に組んだコンビである。ゆったりした間の漫才と、関係性で笑わせるコントで1990年代のテレビの笑いの中心になった。2024年に松本が週刊誌報道を受けて活動を休止し、2025年11月に有料配信「DOWNTOWN+」で再開したが、2026年10月に術後の体調から休養を続けると伝えている。