No.219新着 藤山寛美 「阿呆役」で松竹新喜劇の看板になり、借金で一度劇団を離れ、1990年に60歳で亡くなった
藤山寛美は1929年に大阪で生まれ、新派の役者だった父を4歳で亡くして子役から舞台に立った。戦後に松竹新喜劇の旗揚げに加わり、「阿呆役」とテレビの「親バカ子バカ」で人気者になった。借金で劇団を離れたのち復帰し、1990年5月21日に亡くなった。借金の額や年は、資料によって食い違う。
本文と出典
あらまし
藤山寛美は、松竹新喜劇の看板役者として知られる喜劇俳優である。コトバンクが載せる辞典類によれば、生まれは1929年(昭和4年)6月15日、大阪市。父は新派の俳優だった藤山秋美で、週刊現代の連載記事(2014年)によると、父は寛美が数え4歳のころ、昭和8年1月に46歳で亡くなった。
寛美の名は、新派の花柳章太郎がつけたとされる。同じ記事は、昭和8年10月に母が幼い息子を花柳の楽屋へ連れて行ったことが縁だと書いている。以後は子役として舞台に立ち、戦後は渋谷天外らの松竹新喜劇で、頭の弱い人のいい青年を演じる「阿呆役」の人気者になった。晩年は肝硬変と診断され、1990年5月21日に亡くなった。
主なできごと
・1929年 6月15日、大阪市に生まれる
・1934年 関西新派の都築文男に入門し、道頓堀の角座で初舞台(『新撰 芸能人物事典』による)
・1941年 松竹家庭劇に入る(『日本大百科全書』『ブリタニカ』による。週刊現代の記事は、この年の7月に渋谷天外が才能を認めたと書く)
・1945年 関東軍の慰問隊として満州へ渡り、戦後はソ連軍に抑留される。帰国は1947年以降
・1948年 12月、中座で松竹新喜劇が旗揚げ。寛美も参加した顔ぶれの一人
・1951年 渋谷天外作「桂春団治」の酒屋の丁稚の役が評価される(ウィキペディアによる)
・1959年 読売テレビで「天外の親バカ子バカ」(同じくウィキペディアによる。辞典によって放送年に食い違いがある)
・1965〜1967年 多額の借金で破産し、劇団を離れる。1967年に劇団が借金を肩代わりして復帰させたとウィキペディアの「松竹新喜劇」の項は書く
・1973年 芸術選奨文部大臣賞
・1981年 10月、180か月連続の無休公演の記録(『新撰』『20世紀日本人名事典』による)
・1985年 松尾芸能賞(大賞)
・1989年 紫綬褒章
・1990年 5月21日死去。最後の舞台は大阪・中座の「アットンの詩」(『新撰』による)
・2010年 没後20年にあたり、三女の藤山直美が特別公演を開く
くわしく 子役から阿呆役まで
寛美の出発は、人気ものの二枚目の息子ではなく、父の死で収入を失った子役だった。週刊現代の記事は、子役時代の給金を月50円と書く。青年部の俳優が約15円と知って驚いた、という本人の話も載っている。母は稽古のあと、住吉公園で夜遅くまで練習をさせたという。
戦時下の1945年3月、寛美は慰問団の一員として満州へ渡り、奉天で玉音放送を聞いたと同記事は書く。満州にはおよそ2年半いた。引き揚げ船で帰る途中、「アホの芝居なんて流行るのだろうか」と思ったという発言が記事に残っている。のちに自分の看板になる役を、帰国のころには疑っていたことになる。
阿呆役の評価が固まった年は、資料でそろわない。ウィキペディアは、1951年に渋谷天外作「桂春団治」の酒屋の丁稚の役を演じて一躍人気役者になったと書く。コトバンクの『新撰 芸能人物事典』は、この役で寛美自身が阿呆役に目覚めたと読める書き方をしている。ただ、この辞典は年の記載が他の辞典と食い違っており、どの年を境にしたのかは断定しにくい。
くわしく テレビと座長
全国に名を広げたのはテレビである。「親バカ子バカ」で天外と共演し、阿呆の息子を演じて評判をとった、という点は複数の辞典で一致する。放送年は、『新撰』が1949年、『20世紀日本人名事典』と『日本人名大辞典+Plus』が1959年と書き、辞典の間で割れている。ウィキペディアは読売テレビで1959年に「天外の親バカ子バカ」、1960年に「新・親バカ子バカ」を放送したと記す。
ウィキペディアの「松竹新喜劇」の項は、1956年に天外の方針に反対した曾我廼家十吾が抜けて劇団が危機に陥り、やがて寛美がテレビを通じて人気を得て、天外と寛美の組み合わせが不動になったと書く。1965年に天外が病に倒れてからは、寛美が劇団の一枚看板になった。観客の要望を受けて演目を決める「リクエスト狂言」などの企画で劇団を支えた、とも辞典類にある。
テレビの舞台中継や視聴率については、今回開いた資料に具体的な数字が見つからなかった。ウィキペディアは「藤山寛美3600秒」「藤山寛美いろは劇場」などの番組名を挙げているが、放送年や反響の詳細は確かめていない。
くわしく 借金と復帰、晩年
人気の絶頂で、寛美は借金を抱えた。ウィキペディアの「藤山寛美」の項は、1966年に1億8,000万円の負債で自己破産し、松竹と松竹芸能から契約解除を通告されて事実上解雇されたと書く。一方、本人の自伝(1967年12月刊)は、酒と女に溺れて1億4,000万円の借金を作った、と週刊現代の記事で紹介されている。額は資料によって4,000万円違い、年も1965年・1966年と分かれる。『新撰』は1963年ごろの破産宣告と1966年の退団・復帰としており、資料ごとの隔たりは大きい。
ウィキペディアの「松竹新喜劇」の項によれば、寛美を外した劇団は客足が落ち、1967年に借金を肩代わりして寛美を呼び戻した。復帰後は借金を返しながら舞台に立ち続け、完済は復帰から約20年後だったとウィキペディアは書く。『新撰』などは1981年10月の180か月連続無休公演を記録として挙げ、ウィキペディアは「20年間、1日も休まず」と書いている。数え方が違うため、そろった数字として扱うのは避けたい。
晩年については、ウィキペディアによれば、1990年3月に体調不良で大阪市立大学医学部附属病院に検査入院し、肝硬変と診断された。『新撰』は死因を肝硬変としている。亡くなったのは5月21日で、満60歳である。
没後、ウィキペディアは桂米朝、上岡龍太郎、立川談志らの追悼の言葉を載せている。談志は「通天閣が無くなったようだ」と語ったとされる。劇団は1991年に「新生松竹新喜劇」と改称し、のちに「新生」を外して今に続く。
なぜ受けたのか
資料から確かめられるのは、阿呆の青年をテレビの茶の間と劇場の両方に出したことである。テレビで顔を知られた人気者が、毎月の劇場にも出る。観客が見たがる演目を選ぶ「リクエスト狂言」もあり、客席の好みを受け取る仕組みがあった。
評価の分かれる点
一つは、阿呆役がいつ定着したかである。1951年の丁稚役を挙げる資料がある一方、テレビの「親バカ子バカ」を決定打とする資料もあり、どちらも複数の辞典が支えている。
もう一つは、借金と退団の扱いである。額は1億4,000万円とも1億8,000万円とも伝えられ、破産の年も1965年、1966年と割れる。また、寛美を外した劇団の客足が落ちて復帰に至ったとする書き方がある一方、寛美の私生活の問題が主因だったという辞典の書き方もある。どの説も、今回の出典から断定はできない。
くらさんの考察
阿呆役は、客に愚かさを笑わせる役ではなく、客が自分の側に引き寄せて見る役だったと考えられる。ただし、その根拠は資料に直接ある話ではなく、「親バカ子バカ」の親子ものという形から推した見方にとどまる。
借金の事実も、芸の評価に重ねない方がよい。破産で劇団を離れ、劇団が呼び戻したという筋は、寛美が客を呼べる存在だったことを示してはいる。だが、それ以上の人物評は、報道や自伝の語りに頼る部分が大きく、決めつけは避けたい。
ジージへの問いかけ
・子どものころ、テレビや劇場の中継で藤山寛美を見た記憶はありますか。どの演目や場面が残っていますか。
・「阿呆役」の笑いは、当時の大阪の人にとってどんな笑いだったと思いますか。
・借金で劇団を離れ、また戻った人を、客席はどう迎えたと思いますか。
出典
・コトバンク「藤山寛美」(新撰 芸能人物事典・20世紀日本人名事典ほか) https://kotobank.jp/word/藤山寛美-1654157
・コトバンク「藤山寛美」(別項目・同系の辞典) https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%B1%B1%E5%AF%9B%E7%BE%8E-168149
・週刊現代(現代ビジネス)「藤山寛美(その一)」2014年 https://gendai.media/articles/-/37892
動画
・藤山寛美二十七回忌追善「松竹新喜劇」告知動画(松竹チャンネル/SHOCHIKUch)https://www.youtube.com/watch?v=NqSVF_o36UA
関連動画
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