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No.238新着 B&B 三代目の相方で漫才ブームに乗り、早口の掛け合いと「もみじまんじゅう」で全国区になった広島・岡山の二人

B&Bは島田洋七と島田洋八の漫才コンビで、洋七にとって三代目の組み合わせにあたる。1975年に結成し、1980年の漫才ブームで一気に売れ、1983年に解散した。ブームの最中は週に十数本のレギュラーを抱え、その忙しさがネタの使い回しと失速につながったとされる。

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登録日時
2026年11月5日 18:21
出典を確かめた日
2026年11月5日
分野
芸人と作り手
立場
事実・データ
タグ
漫才新着上方新着テレビ新着吉本興業新着
芸人・番組
B&B、島田洋七、島田洋八、笑ってる場合ですよ!、激突!漫才新幹線、花王名人劇場
資料の種類
事典・概説
年代
1972〜1983年

本文と出典

あらまし

B&Bは、島田洋七(広島県出身)と島田洋八(岡山県出身)の漫才コンビである。1980年前後の漫才ブームで、ツービート、ザ・ぼんち、紳助・竜介などと並んで中心に立った。
ただし、洋七が「B&B」を名乗ったのはこの二人が最初ではない。ウィキペディアによれば、1972年の初代、1973年の二代目を経て、1975年9月に洋八と組んだ三代目が、いまのB&Bにあたる。
ブームの絶頂は短かった。1983年秋に解散するまでの数年間に、売れ方の速さと落ち方の速さの両方が出た組である。

主なできごと

・1971年 洋七が島田洋之介・今喜多代に弟子入りする(JPRIMEの人物記事による。なんば花月で見たやすきよの漫才が動機だったと書かれている)
・1972年 洋七が初代B&Bを結成してデビューする
・1973年 洋七が上方真一(のちの上方よしお)と二代目を組む
・1974年 第4回NHK上方漫才コンテストで優秀話術賞を受ける
・1975年9月 洋八と組み、三代目B&Bを結成する
・1976年 広島と岡山のやり取りから、「もみじまんじゅう」の一発ギャグが生まれたと、ウィキペディアは記す
・1980年1月 『激突!漫才新幹線』に出て、一夜で人気が上がったとされる
・1980年 『お笑いスター誕生!!』で10週勝ち抜き、初代グランプリになる。同年10月、『笑ってる場合ですよ!』の総合司会になる
・1981年 多数のレギュラーを抱える。『オレたちひょうきん族』にも、洋八がうなずきトリオの一人として出た
・1982年 『笑ってる場合ですよ!』が終わる
・1983年秋 コンビを解散する

くわしく 三つ目の組み合わせ

洋七の最初の二つのコンビは長く続かなかった。ウィキペディアは、初代は初舞台のあと相方が姿を消して消えたと記し、二代目は楽器を持つかどうかをめぐるけんかで別れたと記す。
三代目の相方に洋八が入った経緯は、資料によって書き方が違う。ウィキペディアのB&Bの項は、桂三枝(のちの六代目桂文枝)の薦めを受けて洋七が洋八を口説いたと記す。同じウィキペディアの洋八の項は、洋七が東京進出を望んだのに上方よしおが拒んで別れたあと、三枝の勧めもあって洋八と組んだと記す。どちらも三枝の関与は一致するが、二代目との別れの理由は食い違う。
コンビ名の「七」と「八」には、「七転び八起き」あるいは「七転八倒」から取ったという説明が付いている。

くわしく 関西から東京へ

JPRIMEの人物記事によれば、洋七は1970年代後半に関西でレギュラー番組を3〜4本持った。しかし広島や佐賀では放送されず、家族に見てもらえないため、先輩の助言を受けて上京を決めた。吉本興業には「東京で大阪の漫才を広めたい」と伝えたという。
転機は1980年である。同記事は、フジテレビの『花王名人劇場』のプロデューサー澤田隆治と出会い、『激突!漫才新幹線』でやすきよと共演したと書く。翌日に花王からCMの依頼が来て、ブームの渦中に入ったという。この番組については、すでにこのサイトに『花王名人劇場』の記事がある。

くわしく ブームの中の忙しさ

JPRIMEの同じ記事は、ピーク時に週19本のレギュラーを持ち、最高月収は8000万円を超えたと書く。この数字は洋七本人の回想にもとづく記事の記述で、帳簿などで裏付けられたものではない。
2025年7月放送のフジテレビ系『ネタパレ』では、ザ・ぼんちのぼんちおさむが当時を振り返り、トイレでビートたけしと島田洋七が年収の話をしていて、「3億、5億」と言っていたと語った。デイリースポーツが報じている。年も通貨単位も記事に書かれておらず、芸人の思い出話として読むのが適当である。
司会の仕事も増えた。1980年10月からは『笑ってる場合ですよ!』の総合司会を務めた。ウィキペディアは、1981年1月に同番組の観覧でスタジオアルタ周辺に人が集まり、将棋倒しで2人が負傷したと記す。客席に若い女性が詰めかけていたことを示す出来事である。

くわしく 解散とその後

ウィキペディアは解散の理由を、多忙でネタを作る時間がなくなり、同じネタの使い回しで飽きられたこと、事務所が小さく仕事を全部受けて消耗したこと、1982年に『笑ってる場合ですよ!』が終わって人気が急に下がったことと整理している。これは本人たちの発言や関係者の話をまとめたもので、原因を一つに決めた説明ではない。
JPRIMEの記事も、番組の終了が1982年、解散が1983年と書く。
解散後、洋七は国分健二とのコンビ「スティング」などを組んだが、長続きしなかった。1996年に洋八と再びB&Bを組み、吉本興業に復帰した。洋七は2007年に吉本を離れ、洋八も2011年末に吉本を退社した。2012年10月、約5年ぶりにコンビを再結成した。
洋七は自伝的な著書『佐賀のがばいばあちゃん』で知られ、同書は2006年に映画になった。洋八は「藤井洋八」の名で俳優の仕事も手がけている。

なぜ受けたのか

資料から確かめられるのは、次の点である。ウィキペディアは、B&Bを速いテンポで一方的にしゃべる「マシンガン漫才」の元祖とし、ビートたけしらに影響を与えたとされると記す。また、お笑い芸人をアイドルのように扱わせた組だとも記す。『お笑いスター誕生!!』の勝ち抜き、『笑ってる場合ですよ!』の司会という、昼から夕方にかけてのテレビの枠に出ていた。
ただし、この「元祖」「影響」「アイドル化」はいずれも書き手の評価である。たけしがB&Bのどの点を意識したのかを示す一次の発言は、今回開いた資料には無かった。

評価の分かれる点

「マシンガン漫才の元祖」という言い方は、誰を最初と数えるかで変わる。早口で畳みかける形は、同時期にツービートも持っていた。先行・影響の関係は、確かめられた範囲では断定できない。
解散の理由も、上のとおり複数の要因を並べた説明になっている。どれが決め手かを裏付ける資料は見つけていない。

くらさんの考察

B&Bの経歴で目につくのは、コンビを替えて三度目で当たったことと、当たったあとに忙しさでネタが回らなくなったことである。1980年の勢いは、『花王名人劇場』のような大きな演芸番組と、昼の帯番組という二種類の場がそろったからだと考えられる。
売れ方の速さが、そのまま使い切られる速さになった可能性もある。ただし、これはウィキペディアの解散理由の整理から組み立てた推測で、当事者の証言で確かめたものではない。
再結成が何度もあった点は、コンビが解散後も「B&B」という名前自体を資産として持ち続けたことを示すと考えられる。

ジージへの問いかけ

・1980年ごろ、ジージはテレビやラジオでB&Bの「もみじまんじゅう」を見聞きしましたか。当時の広島や岡山の人の反応は覚えていますか。
・昼の番組の司会にお笑い芸人が出るようになったのは、この頃からだと感じますか。それとも、もっと前からあったと思いますか。
・忙しくなりすぎて、ネタを作る暇がなくなるという話を、ほかの芸人からも聞いたことがありますか。

出典

・B&B(お笑いコンビ)(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/B%26B_(お笑いコンビ)
・島田洋八(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/島田洋八
・島田洋七(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/島田洋七
・島田洋七の人物記事(JPRIME) https://www.jprime.jp/articles/-/20999
・ザ・ぼんちが漫才ブームの収入差を語った記事(デイリースポーツ、2025年7月22日) https://www.daily.co.jp/gossip/2025/07/22/0019258567.shtml

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