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No.218新着 夢路いとし・喜味こいし 子供漫才から六十余年、下ネタを使わないしゃべくりで上方の看板になった兄弟

夢路いとし(1925〜2003年)と喜味こいし(1927〜2011年)は、実の兄弟で組んだ上方漫才の看板コンビである。1937年に荒川芳丸に入門して子供漫才から出発し、戦後は秋田實と組んでラジオやテレビへ進んだ。1993年に紫綬褒章を受け、2003年にいとしが亡くなると、こいしは「いとし・こいし」の終わりを自ら告げた。

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登録日時
2026年10月29日 18:20
出典を確かめた日
2026年10月29日
分野
芸人と作り手
立場
くらさんの考察
タグ
漫才新着上方新着吉本興業新着テレビ新着ラジオ新着
芸人・番組
夢路いとし、喜味こいし、荒川芳丸、秋田實、がっちり買いまショウ、上方漫才大賞
資料の種類
事典・概説
年代
1937〜2003年

本文と出典

あらまし

夢路いとし・喜味こいしは、兄弟で組んだ上方漫才のコンビである。兄のいとし(本名・篠原博信)は1925年3月27日の生まれで、2003年9月25日に78歳で亡くなった。弟のこいし(本名・篠原勲)は1927年8月6日の生まれで、2011年1月23日に83歳で亡くなった。ファンの間では「いとこい」の愛称でも呼ばれた。
両親は旅回りの一座に属していた。二人は幼いころから舞台に立ち、1937年に上方漫才の草分けである荒川芳丸に入門して、荒川芳博・芳坊の名で子供漫才を始めた。芸風は、家庭や世間の話題を材料にしたしゃべくり漫才である。下ネタや人を不快にするネタを使わない正統派として知られる。

主なできごと

・1937年 荒川芳丸に入門し、荒川芳博・芳坊として子供漫才を始める
・1940年 吉本興業に所属する(コトバンクの記述による)
・1948年 秋田實と出会い、若手漫才集団「MZ研進会」を結成。夢路いとし・喜味こいしと改名する
・1950年 NHK大阪のラジオ番組「気まぐれショーボート」で注目を集める
・1963年12月〜1975年3月 視聴者参加番組「がっちり買いまショウ」の司会を務める
・1967年 芸術祭奨励賞
・1969年 第4回上方漫才大賞の大賞
・1976年 第5回上方お笑い大賞の大賞
・1993年 紫綬褒章、第43回芸術選奨文部大臣賞
・1996年 いとしが脳内出血で倒れ、のちに復帰する
・1998年 勲四等旭日小綬章
・1999年 大阪市の無形文化財に漫才として初めて指定される
・2003年 9月25日にいとしが死去。同月29日にこいしが解散を語る。菊池寛賞も同年に受ける

子供漫才から戦後まで

漫才を始めたのは、こいしが10歳、いとしが12歳のころとされる。文藝春秋の記事によると、こいしは女剣劇の一座で子役を務め、いとしは東京で映画に出ていた。1936年2月の二・二六事件を受けて、父がいとしを東京から連れ戻した。そこで「この子らに漫才をさせては」という話になり、荒川芳丸の一座に入ったのが始まりだという。
1940年冬には、大阪・千日前の南陽館で吉本興業の手見せ(オーディション)を受けた。同じ記事は、帰りの電車で横山エンタツから声をかけられたと伝える。一方、子供が大劇場に出ることへの年長芸人の反発もあり、出番のあとは楽屋に居づらく、楽屋口近くの路地で待つことが多かったという。
戦時中、こいしは志願兵として陸軍に入り、広島の兵舎で被爆したと、人物事典のイミダスは記す。戦後の1948年に秋田實と出会い、若手漫才集団を結成して、現在のコンビ名になった。名前は、兄が「一人でも二人でも意味が通る」ように考えたもので、どちらを名乗るかはじゃんけんで決めたとウィキペディアは書く。「夢路」は兄が月丘夢路のファンだったことから、「こいし」は二村定一のヒット曲「君恋し」から取ったという。

ネタづくりと芸風

ネタを書いたのは、いとし(荒川芳博名義)、秋田實、織田正吉らである。文藝春秋の記事によれば、秋田の台本は箇条書きに近く、いとしがそこへセリフを肉付けした。いとしは台本にない洒落を舞台で差し込むことがあり、こいしは、ここでボケるのかツッコむのか迷って冷や汗をかいたという。周囲は、いとしの独特の「間」を評価していたとも伝わる。
ウィキペディアによれば、桂米朝はこの二人の話し方を「淡々として世間話のようなしゃべり方」と評した。年齢に合わせてネタを作り、ゆっくり話す方向へ移っていったとも書かれている。コトバンクは主な演目として「交通巡査」「三十年目の新婚旅行」「わが家の湾岸戦争」などを挙げる。

ラジオ・テレビの仕事

放送では、1950年の「気まぐれショーボート」が出発点になる。ウィキペディアの出演番組欄には、ほかに「漫才学校」(1954年1月〜1956年5月)、「いとし・こいしの新聞展望」(1959年10月〜1962年6月)、「今夜はちょっと気晴亭」(2001年4月〜2003年3月)が並ぶ。
最も知られた仕事は「がっちり買いまショウ」で、1963年12月から1975年3月まで11年余り続いた。コトバンクは、早口の決め台詞が番組の名物になったと書く。

なぜ受けたのか

資料から確かめられるのは、次の点である。幼少期からの舞台経験があり、兄弟だけで長く組み続けた。ネタは世間話に近い題材で、不快な表現を避けていた。放送の場では、司会や新聞を題材にした番組など、漫才の外にも仕事の幅が広がった。
こうした条件が重なって、寄席の客だけでなく、茶の間の視聴者にも受け入れられたと考えられる。ただし、客席や視聴者の反応を直接に測った資料は確かめていない。

活動の終わり方

2003年9月25日にいとしが亡くなったあと、同月29日にこいしは、いとし・こいしという漫才は兄が死んでもう終わりだという趣旨を語り、解散を発表した(ウィキペディアの記述による)。相方が欠けたときに別の相方を探さず、コンビの名をそこで閉じた形になる。こいしはその後、一人で活動を続け、2011年1月に亡くなった。

評価の分かれる点

コンビの「結成」をいつとするかは、資料で揺れる。文藝春秋の記事とウィキペディアは1937年を結成とし、コトバンクは1937年の入門から1948年の改名・MZ研進会結成までを順に書く。子供漫才の荒川芳博・芳坊と、現在の名のコンビを同じものと見るか、1948年を区切りとするかで、数え方が変わる。
出身地も資料で食い違う。コトバンクはいとしを神奈川県横浜市の生まれ、イミダスはこいしを埼玉県の生まれとする。旅回りの一座の子であり、土地を移りながら育ったことの表れと考えられるが、どちらも一つの資料にしか当たっていない。

くらさんの考察

このコンビの特徴は、笑いを大きく動かす芸風ではなく、長く同じ温度で続けたことにあると考えられる。受賞歴を見ると、上方漫才大賞や上方お笑い大賞に加え、紫綬褒章、旭日小綬章、大阪市の無形文化財と、演芸賞より公的な顕彰が目立つ。しゃべくり漫才が、芸術として扱われるきっかけの一つになった可能性がある。
終わり方にも注意したい。兄の死でコンビを閉じたことは、兄弟という関係が芸の土台にあったことを示す。ただし、これは並べて見たときの印象であり、こいし本人の真意を確かめた資料は、今回は開けていない。

ジージへの問いかけ

・「がっちり買いまショウ」や、いとし・こいしの漫才をテレビで見た記憶はありますか。当時の印象はどうでしたか。
・下ネタを使わず、世間話のように話す漫才は、ジージの目から見て、ほかの漫才と比べて何が違いましたか。
・相方が亡くなったときに、コンビごと閉じるという選び方を、どう思いますか。

出典

・ウィキペディア「夢路いとし・喜味こいし」 https://ja.wikipedia.org/wiki/夢路いとし・喜味こいし
・コトバンク「夢路いとし」 https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A2%E8%B7%AF%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%97-1119054
・文藝春秋 BUNSHUN「夢路いとし 二・二六事件でコンビ誕生」 https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h9985
・イミダス「喜味こいし」 https://imidas.jp/hotkeyperson/detail/P-00-202-11-02-H050.html

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