ver0.92

← 芸人と作り手一覧へ戻る

No.233新着 コント55号 浅草フランス座で出会った二人が組み、テレビの人気者になり、解散宣言のないまま終わった

コント55号は、萩本欽一と坂上二郎が1966年に組んだコンビである。二人は浅草フランス座の若手として先に出会っており、同じ年の10月に浅草松竹演芸場の舞台でコンビとして出た。1975年以降はコンビでの活動が大きく減り、解散宣言はなかった。2010年に萩本が「終わった」と語り、2011年に坂上が亡くなった。ウィキペディアと報道を開いて確かめた範囲だけを書き、資料どうしで食い違う点は本文に示す。

𝕏 でポストする

登録日時
2026年11月3日 18:19
出典を確かめた日
2026年11月3日
分野
芸人と作り手
立場
事実・データ
タグ
コント新着テレビ新着喜劇・新喜劇新着東京新着
芸人・番組
コント55号、萩本欽一、坂上二郎、浅草フランス座、浅草松竹演芸場
資料の種類
事典・概説
年代
1962〜2011年

本文と出典

あらまし

コント55号は、萩本欽一と坂上二郎の二人組である。1966年に組み、1960年代後半から70年代初めにかけてテレビの人気者になった。ウィキペディアは、坂上が善良な一般市民、萩本が常識から外れた人物にまわり、坂上が振り回される筋が多かったと整理している。
当サイトには萩本欽一個人を扱った記事がある(id 201)。この記事は、二人のコンビとしての歩みに絞る。結成までの経緯、テレビでの活動、コンビの終わり方、坂上のその後を、確かめられた範囲で書く。

主なできごと

・1962年 秋、坂上二郎が浅草フランス座で萩本欽一と出会う(坂上二郎の項目)
・1966年 萩本が一人コントを考え、坂上が共演を申し出る。10月、浅草松竹演芸場の舞台に出る
・1967年 2月14日、日劇の「西田佐知子ショー」への出演が決まる
・1968年 フジテレビで「コント55号の世界は笑う!」が始まる
・1969年 日本テレビで「コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!」が放送される
・1970年 フジテレビで「コント55号のやるぞみてくれ!」が始まる(4月)
・1975年 このころからコンビの活動を大きく減らす
・1992年〜93年 フジテレビ、テレビ朝日の特番で共演する
・2010年 12月7日、萩本が「コント55号は終わった」と語る
・2011年 3月10日、坂上二郎が76歳で亡くなる

くわしく 浅草フランス座での出会い

日刊ゲンダイの連載で、萩本はこう語っている。浅草の東洋劇場は1階がストリップ劇場で、2階の軽演劇とコントの舞台がフランス座だった。萩本は1階からフランス座へ移り、給料は2万円になった。本人は、いまの60万円ほどにあたると話している。
坂上二郎はそこで売り出し中の若手だった。萩本が加わってからは、二人が主役を交互に務め、互いにライバルのような間柄になった。萩本は、舞台の下ネタを控えるよう言われたあと、坂上との間でアドリブの応酬になったと語る。
坂上の項目は、二人が出会ったのを1962年秋とし、当時は楽屋で口を利かない関係だったと書く。コント55号の項目は、フランス座時代に幕間のコントで共演した仲だったとする。仲がよかったとは書かれていない。

くわしく 1966年の結成

コント55号の項目によれば、1966年に萩本は熱海のホテルでの営業中に一人コント「机」を考え、以前出ていた浅草松竹演芸場へ売り込む準備をしていた。そこへ坂上から電話があり、坂上が助演に回ることが決まった。
坂上の項目は、少し違う流れを書く。坂上はそのころ仕事が振るわず、大型免許を取って転職しようかと考えていた。麻雀の人数が足りず萩本に電話をかけたところ、連絡がつき、萩本が温めていた一人コントの筋を聞いて、共演を申し出たという。電話をかけたのが萩本か坂上かは、二つの項目で言い方が違う。
同年10月、浅草松竹演芸場の上席前座で「机」を演じた。反応が今ひとつだったので、三日目に役を入れ替えたところ好評になり、五日目に出演者の表に名が載った。萩本の説では、このとき支配人がコンビ名を付けたとされる。

くわしく ボケとツッコミの入れ替え

日刊ゲンダイの連載(2026年6月)は、ボケとツッコミを入れ替えたことが人気につながったと伝える。浅草で2回ほど上演して笑いが取れず、役割を替える話になった。萩本は以前、役を替えようと言い出したのは自分だと話していた。今回、放送作家の滝大作が先に同じ案を出していたと知り、その発言を訂正したいと語っている。連載は有料記事で、役割交換の細かい時期はこの範囲では確かめられなかった。

くわしく テレビでの活動

ウィキペディアは、1967年に「大正テレビ寄席」(日本教育テレビ)、68年に「お昼のゴールデンショー」(フジテレビ)に出たと記す。冠番組は、68年からフジテレビの「コント55号の世界は笑う!」、69年に日本テレビの「コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!」、70年4月からフジテレビの「コント55号のやるぞみてくれ!」である。
「裏番組」について項目は、NHK大河ドラマ「天と地と」の視聴率を追い抜いたと書く。ただし視聴率の数字は書かれておらず、今回は数字を確かめられなかった。
「野球ケン」のコーナーも知られる。項目は、1969年の「裏番組」から独立して「コント55号の野球ケン!!」になり、同年11月に再開、70年3月に打ち切られたと注記する。別の資料では異なる時期の記述があり、項目自体が食い違いを示しているので、細部は断定しない。

くわしく コンビの終わり方

1975年以降、二人はコンビとしての活動を大きく減らした。ウィキペディアによれば、萩本は、客から「本気でいじめていると思われている」と感じ、コントを続けられなくなったと語った。一方、坂上の項目は、コンビ活動の中断を1976年とする。年が一年ずれている。
解散の宣言はなかった。項目は、萩本が「始まりが無ければ終わりも無い」と語っていたと伝える。その後も特番で共演があり、1977年のフジテレビ「元祖コント55号の笑って笑って」、1992年10月の「元祖コント55号'92」、同年12月のテレビ朝日「どこまでも!コント55号」、93年3月の同局「欽ちゃん二郎さん コントで御免!」が項目に挙がっている。
2010年12月7日、BS日テレの番組で、萩本は「コント55号は終わった」と語った。坂上が後遺症のために動きのあるコントを演じられなくなったことが理由とされる。終了宣言と受け取れる最初の発言だと、項目は書く。

くわしく 坂上二郎のその後

坂上の項目によれば、1972年ごろから役者として動き、コンビ活動の中断以降は本格的に出た。連続ドラマの初主演は「夜明けの刑事」(1974〜77年)である。歌手としては、1974年に「学校の先生」がヒットした。
2003年9月25日にゴルフの最中に脳梗塞で倒れたが、症状は軽く、2004年6月に復帰した。2010年8月13日に自宅の台所で再び倒れて入院し、首から下が麻痺して、2011年1月の明治座の公演を取りやめた。2011年3月10日午前9時40分、栃木県那須塩原市の病院で亡くなった。76歳、死因は脳梗塞である。

なぜ受けたのか

確かめられた資料が述べる理由は少ない。ウィキペディアの整理では、萩本の無茶な振りと執拗な突っ込みに、坂上が戸惑い、苦笑し、時に過剰なボケで返すことで笑いが大きくなった。台本は岩城未知男の名で出たが、実際には萩本が作り、即興に近い形で演じたと萩本が語っている。
文春オンライン(2021年)は、浅草時代に相手役と台詞がかみ合わず、客をいじっていたことが、のちの素人いじりの下地になったという見方を紹介している。これは見方の一つで、コント55号が受けた理由の説明ではない。視聴者がなぜ見たかを調べた資料は、今回開いたものには見当たらなかった。

評価の分かれる点

コンビの区切りをいつに置くかは、資料で分かれる。活動を減らした1975年(または76年)、萩本が「終わった」と語った2010年、坂上が亡くなった2011年のどれを選ぶかで、見え方が変わる。解散を宣言していないので、どれも確定した終わりではない。
コンビ名の由来も定まらない。項目には、王貞治の年間55本塁打、「ゴーゴー」などの説が挙がるが、本人らが付けたものではなく、真相は不明とされる。命名者も、支配人とする説と、別の人物の証言とする説がある。

くらさんの考察

二人が、同じ小屋で互いに主役を張るライバルとして出会ったという話は、後のコンビの形を考える手がかりになると考えられる。役の入れ替えが当たりを呼んだ点も、上下の決まったコンビではなく、対等に近い者同士だったことと関係する可能性がある。ただし、これは資料が直接述べた理由ではない。
解散の宣言がないまま終わった形は、音楽や劇団の解散と違って、お笑いコンビに特有の曖昧さを示すと考えられる。ただ、他のコンビとの比較はしていないので、一般化はできない。

ジージへの問いかけ

・ジージが子どもや若者のころ、コント55号の二人は、どんな場面で見ましたか。萩本さんと坂上さんのどちらが印象に残っていますか。
・「野球拳」のように、テレビで話題になった企画で覚えているものはありますか。
・萩本さんがその後に出した番組と、コント55号の頃とでは、お笑いの感じが変わったと思いますか。

出典

・コント55号(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/コント55号
・坂上二郎(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/坂上二郎
・萩本欽一〈17〉伝説の「コント55号」結成秘話(日刊ゲンダイ、2026年6月9日) https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/388394
・萩本欽一〈19〉ボケとツッコミを入れ替えたら人気爆発!コント55号の生みの親(日刊ゲンダイ、2026年6月16日) https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/388704
・80歳になった“欽ちゃん”(文春オンライン、2021年5月7日) https://bunshun.jp/articles/-/45350

この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージがお笑いQAでくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。