No.210新着 古今亭志ん生 満州から戻って人気が爆発した、戦後東京の落語の大看板
五代目古今亭志ん生(1890〜1973)は、多くの改名を重ねて1939年に志ん生を襲名した東京の落語家である。1945年に満州へ慰問に渡って敗戦後も帰れず、1947年1月に帰国してから人気が高まった。長男は十代目金原亭馬生、次男は三代目古今亭志ん朝で、1973年9月21日に83歳で亡くなった。
本文と出典
あらまし
五代目古今亭志ん生は、本名を美濃部孝蔵という。生まれは1890年(明治23年)、東京の神田である。生年月日は資料で割れていて、『新撰 芸能人物事典』と日本人名大辞典が6月5日、『20世紀日本人名事典』とブリタニカ小項目事典が6月28日とする。1939年に志ん生を襲名し、戦後は八代目桂文楽と並ぶ東京落語の中心になった。長男の十代目金原亭馬生、次男の三代目古今亭志ん朝も、ともに名のある落語家になった。1973年9月21日、自宅で亡くなった。
主なできごと
・1890年 東京の神田に生まれる(生年月日は6月5日説と6月28日説がある)
・1934年 七代目金原亭馬生を襲名する
・1939年 五代目古今亭志ん生を襲名する
・1943年 長男の清(のちの十代目馬生)が父に入門する
・1945年 5月6日、慰問のため満州へ渡る(ウィキペディアによる)
・1947年 1月12日に帰国し、27日に帰宅する。人気が高まる
・1953〜54年 ラジオ東京、ニッポン放送の専属になる
・1956年 「お直し」で芸術祭賞を受ける。自伝『なめくじ艦隊』が出る
・1957年 落語協会の会長になる(1963年まで)。次男の強次(のちの志ん朝)が入門する
・1961年 12月、口演中に脳出血で倒れる
・1968年 最後の高座を務める。以後は高座に出なかった
・1973年 9月21日、83歳で死去する
名の変遷
最初の名は三遊亭朝太で、そのあと三遊亭圓菊、金原亭馬太郎、金原亭馬きん(真打昇進)、三代目古今亭志ん馬、柳家東三楼、七代目金原亭馬生と変わり、1939年に志ん生に落ち着いた。ウィキペディアの年表では、馬太郎が1918年、馬きんが1921年、志ん馬が1924年、東三楼が1927年、馬生が1934年である。改名の回数は資料で一致しない。『新撰 芸能人物事典』は16度、『20世紀日本人名事典』は15回とし、ウィキペディアは本文で16回と書きながら、表には19の名を並べている。数え方の違いと考えられる。ここでは回数を断定しない。
満州慰問と帰国
1945年、陸軍恤兵部の依頼を受けた松竹演芸部の手配で、慰問団が組まれた。志ん生は六代目三遊亭圓生らとこれに加わり、満州へ渡った。同行者として、ウィキペディアは圓生のほかに国井紫香、坂野比呂志の名を挙げる。参加の動機について、コトバンクは、酒が飲めると聞いたからだと書く。
敗戦後も帰国はかなわず、現地で約1年8か月を過ごした。コトバンクは大連で終戦を迎えたと書く。引き揚げ船に乗ったのは1946年の末で、文春オンラインの記事は、ソ連軍の侵攻のなかで九死に一生を得たと伝えている。ウィキペディアは、帰国を1947年1月12日、帰宅を1月27日とする。圓生の帰国は3月だった。
留守のあいだ、長男の馬生が一家を支えたとコトバンクは記す。
戦後の人気
帰国するとすぐに寄席へ戻った。文春オンラインによれば、1947年3月31日に上野鈴本で独演会を開き、昼夜とも満員だった。同じ記事は、帰国後は「芸が大きくなった」と評判になったと書く。志ん生本人は、大きいやかんは沸きが遅い、と話していたと伝えられる。
ラジオにも積極的に出た。1953年にラジオ東京、1954年にニッポン放送の専属になった(ニッポン放送は1962年まで)。寄席にいなくても声が聞ける落語家になったわけである。1956年には「お直し」で芸術祭賞を受けた。1957年には桂文楽のあとを受けて落語協会の会長になり、1963年まで務めた。1964年に紫綬褒章、1967年に勲四等瑞宝章を受けている。
二人の息子
長男の十代目金原亭馬生は1928年1月5日に生まれ、1943年に父に入門した。むかし家今松の名で二ツ目から出ている。1947年に古今亭志ん橋の名で真打になり、1949年に十代目馬生を襲名した。芸風は、父の型破りな高座とは対照的に、古典の筋目を守る正統派と評される。1982年9月13日、食道がんのため54歳で亡くなった。父より9年早い。
次男の三代目古今亭志ん朝は1938年3月10日に生まれた。ウィキペディアによれば、もとは役者を志していて、噺家になるつもりはなかった。父から、噺家は扇子一本で偉くなれると説かれて、1957年に入門した。前座名は朝太である。1962年3月に真打になって志ん朝を襲名した。入門から5年での昇進は異例の早さとされる。志ん生は、自分が教えても身につかないと考え、志ん朝の稽古を自分ではつけず、八代目林家正蔵(のちの彦六)のもとに通わせたと伝えられる。志ん朝は、父の芸を形だけ真似ても、育った環境や苦労が違うので近づけないと考えていた。父をまねず、八代目桂文楽の噺の組み立て方に学んで自分の芸を築いたという。2001年10月1日、63歳で亡くなった(ウィキペディアは肝臓がんとする)。
1968年には、志ん生が息子二人を含む弟子たちと、テレビ東京の「人に歴史あり」に出たとウィキペディアは記す。
晩年と最期
1961年12月、口演の最中に脳出血で倒れた。ウィキペディアによれば、約3か月の昏睡を経て回復し、1962年11月11日に新宿末廣亭の高座に戻った。体には麻痺が残った。1968年に上野鈴本演芸場に出たのが最後の寄席で、同年10月9日の精選落語会が最後の高座とされる。コトバンクは、1968年以降は高座に出なかったと書く。1973年9月21日、自宅で亡くなった。83歳だった。
なぜ受けたのか
受けた理由を直接述べる資料は、確かめた範囲では見つからなかった。確かめられたのは、帰国後に評判がいっそう高まったこと、寄席とラジオの両方に出たこと、それに自伝が出たことである。『なめくじ艦隊』は1956年6月に刊行され、弟子の初代金原亭馬の助の聞き書きだとウィキペディアは書く。『びんぼう自慢』は1964年に出ている(小島貞二の聞き書き)。ラジオと書物を通じて、高座の外でも人物像が広く知られたと考えられる。
評価の分かれる点
・若いころの評価は割れていた。ウィキペディアによれば、坊野寿山は巧いが人気は出ないと見た。宇野信夫は噺があまりうまくないと述べ、圓生は間が早すぎると評した
・圓生は志ん生の芸を剣の勝負にたとえ、稽古試合なら自分が勝てるが真剣勝負なら負けるかもしれないと語ったという
・貧乏の話について、小山觀翁は、無頓着に見える姿の裏に厳しい技術があり、貧乏の逸話にも本人がつくった面があるかもしれないと述べた。文楽はその貧乏話を否定したとされる
・高座の出来にむらがあった。酒の影響や遅刻、高座での居眠りもあった。一方、ラジオの録音は時間をきちんと計って演じたものが多かったと伝えられる
・倒れたあとの芸について、香川登志緒は、晩年の演目は志ん生に向いていなかったと批判した
くらさんの考察
志ん生の評判は、酒と貧乏の逸話に寄って語られやすい。しかし確かめられた範囲では、この人は戦中に満州へ渡り、約1年8か月帰れず、帰国後に人気を伸ばし、ラジオに出て、協会の会長を務め、脳出血から高座に戻っている。逸話が先に立つのは、戦後の人気が自伝や語り草を通じて広まったためと考えられる。ただし、これは資料にある説明ではなく、推測である。二人の息子の芸風が、馬生は正統派、志ん朝は文楽に学んだ組み立てと、父と違う方向を向いていたのは、父の芸が型として写しにくかったことと関係するのではないかとも考える。これも確かめられた因果ではない。
ジージへの問いかけ
・ジージが子どものころ、ラジオやテレビで志ん生の声を聞いたことはありますか。どんな印象でしたか
・1947年に満州から戻ってすぐ人気が出たことを、敗戦後の世の中と結びつけて考えるとどう思いますか
・馬生さんと志ん朝さん、父と違う道を行った二人の高座をご覧になったことはありますか
出典
・ウィキペディア「古今亭志ん生 (5代目)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/古今亭志ん生_(5代目)
・ウィキペディア「古今亭志ん朝」 https://ja.wikipedia.org/wiki/古今亭志ん朝
・コトバンク「古今亭志ん生」 https://kotobank.jp/word/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E4%BA%AD%E5%BF%97%E3%82%93%E7%94%9F-500779
・コトバンク「古今亭志ん朝」 https://kotobank.jp/word/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E4%BA%AD%E5%BF%97%E3%82%93%E6%9C%9D-500780
・文春オンライン「ご存知ですか? 7月21日は古今亭志ん生が寄席で伝説の“失態”をしでかした日です」 https://bunshun.jp/articles/-/3420
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