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No.240新着 中田ダイマル・ラケット 兄の死から組んだ兄弟コンビが、民放ラジオと『スチャラカ社員』で「爆笑王」と呼ばれるまで

中田ダイマル・ラケットは、兄ダイマル(1913〜1982)と弟ラケット(1920〜1997)の兄弟漫才コンビである。1941年に結成し、1951年の民間放送の開局を機にラジオで人気を得て「爆笑王」と呼ばれた。テレビでは『ダイラケのびっくり捕物帖』から『スチャラカ社員』まで約10年間、番組の中心を務めた。

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登録日時
2026年11月6日 18:24
出典を確かめた日
2026年11月6日
分野
芸人と作り手
立場
くらさんの考察
タグ
漫才新着上方新着ラジオ新着テレビ新着
芸人・番組
中田ダイマル・ラケット、お笑い街頭録音、ダイラケのびっくり捕物帖、スチャラカ社員、朝日放送、香川登志緒
資料の種類
事典・概説
年代
1934〜1997年

本文と出典

あらまし

中田ダイマル・ラケットは、戦後の上方漫才を代表する兄弟コンビである。愛称は「ダイラケ」。兄のダイマル(本名・中田勇夫)は1913年12月14日生まれ、弟のラケット(本名・中田信夫)は1920年3月3日生まれで、ともに兵庫県川辺郡小田村(現在の尼崎市)の出身である。ウィキペディアによれば、二人は農家の12人兄弟の三男と六男にあたる。
このコンビは、はじめから兄弟で組む予定だったわけではない。ダイマルは別の兄と組んで漫才を始めており、その兄が亡くなったあとに、弟のラケットを相方に迎えた。戦後は民間放送のラジオとテレビで人気を広げ、ウィキペディアは「三秒に一回の笑い」という言い方とともに「爆笑王」の異名を記している。

主なできごと

・1934年 ダイマルが兄と組み、天神橋五丁目の「葵席」で初舞台
・1941年 兄が病死し、弟ラケットと「中田ダイマル・ラケット」を結成
・1947年ごろ しゃべくりを中心にした漫才へ移っていく
・1951年 民間放送の開局を機に、ラジオ番組に多く出るようになる
・1954年 朝日放送ラジオ『お笑い街頭録音』が始まり、人気を得る。同年、朝日放送の準専属となる(1956年から完全な専属)
・1957年 テレビ『ダイラケのびっくり捕物帖』が始まる
・1961年4月2日〜1967年4月30日 『スチャラカ社員』(朝日放送制作、TBS系列、日曜12時15分〜)に出演
・1968年 第3回上方漫才大賞の大賞
・1978年 心斎橋パルコで独演会「爆笑三夜」。同年、上方お笑い大賞の功労賞
・1982年9月5日 ダイマルが腹膜炎で死去(68歳)
・1997年2月5日 ラケットが心不全で死去(76歳)。同年、上方演芸の殿堂入り

くわしく 兄の死から始まったコンビ

ダイマルは1923年に小学校をやめ、職を転々としたのち、映画俳優を志して家を出たとウィキペディアは記す。その後に漫才の道へ入り、兄と組んで「中田デパート・ダイマル」と名乗り、1934年に初舞台を踏んだ。ところが1941年、その兄が結核性の腎臓病で亡くなる。ダイマルは弟の信夫と組み直し、ここで「ダイマル・ラケット」が生まれた。
結成は太平洋戦争が始まる年にあたり、戦時中は地方を回る暮らしだった。この時期の看板は、ボクシングを題材にした激しい動きのある漫才である。日本人名大辞典+Plus も、二人をボクシング漫才で知られたコンビとして紹介している。
戦後は一座を作って各地の劇場に出た。ウィキペディアによれば、1947年ごろから芸の中心が身ぶりから「しゃべくり」へ移っていった。きっかけの一つとして同項が挙げるのは、ダイマルが服用していた副腎皮質ステロイドの影響で体が太ったことである。動き回る芸を続けにくくなった体の変化が、話で笑わせる方向へ芸を押したことになる。

くわしく ラジオの専属から『スチャラカ社員』へ

1951年に関西でも民間放送が始まると、ダイラケはラジオに数多く出るようになった。1954年に始まった朝日放送ラジオ『お笑い街頭録音』で人気を得て、同じ年に朝日放送の準専属となり、1956年からは完全な専属になった。ラジオ番組『スカタン社員』は、のちのテレビ『スチャラカ社員』の元になった番組である。
テレビでは1957年に『ダイラケのびっくり捕物帖』が始まり、同じ放送枠の『スチャラカ社員』へと引き継がれた。ウィキペディアは、この枠で二人が通算10年間メインを担ったと記す。『スチャラカ社員』は1961年4月から1967年4月まで、朝日放送の制作でTBS系列の日曜昼に放送された。脚本は香川登志緒で、ミヤコ蝶々、横山エンタツ、藤田まこと、白木みのる、長門勇らが共演した。ダイラケは社員の役で、毎回の騒動のきっかけを作る側だった。新撰芸能人物事典は、テレビに出始めた1957年から1967年までの約10年を全盛期と書いている。
『スチャラカ社員』が終わったあとは、テレビより演芸場の舞台に力を入れ、後進の指導にもあたった。1978年には心斎橋パルコで3日間の独演会「爆笑三夜」を開き、計10席を演じた。その模様はレコードになり、テレビとラジオでも流れた。
晩年についてウィキペディアは、レギュラー番組がなくなってからダイマルの飲酒量が増え、胃潰瘍を経て1982年9月5日に腹膜炎で亡くなったと記す。同月12日には関西テレビ『花王名人劇場』で追悼の特番が組まれた。ラケットは兄の死後に漫才をやめ、ときおりトーク番組に出る程度にとどまり、1997年2月5日に亡くなった。同じ年、二人は上方演芸の殿堂に入っている。

なぜ受けたのか

一つめは、芸の作りである。ウィキペディアは、正統派のしゃべくり漫才とは違い、奇抜な発想と緻密な構成で笑わせる芸だったと説明する。ダイマルが機関銃のように畳みかけ、ラケットが間のよいツッコミで受ける。ときにはラケットがボケに回ることもできた。客の笑いの間隔が短いことから「3秒に1回」と評されたのも、この畳みかけと関係があると考えられる。「なんでやねん」を問いかけではなくツッコミとして使った最初のコンビという記述も同項にある。
二つめは、ラジオとの相性である。声だけで伝わるラジオでは、身ぶりの面白さは届かない。体の変化をきっかけにしゃべりへ移っていた二人の芸は、民間放送が始まった1951年の時点で、ちょうどラジオ向きの形になっていたことになる。朝日放送の専属になったことで、決まった番組に毎週出続け、聞き手に名前と声を覚えてもらう機会も増えた。
三つめは、流行語である。事典は、ラケットに関わる流行語として「いうてみてみ」「なんじゃとて」「青火がポッ」を挙げる。短い決まり文句が番組をまたいで繰り返されると、ネタの筋を知らない人でも一緒に口にできる。ラジオからテレビへ移るときも、この言葉が二人の目印になったと考えられる。

評価の分かれる点

「なんでやねん」をツッコミとして使った最初のコンビという説明は、ウィキペディアの記述である。今回開いた事典では同じ趣旨を確かめられなかったので、「最初」と言い切ってよいかは、ほかの資料と比べる必要がある。
上方漫才大賞は、ダイラケのウィキペディアでは1968年の大賞と1979年の特別賞が挙がっている。上方漫才大賞の項目では1968年の大賞は確かめられたが、1979年については部門の表示がなく、特別賞だったかを確かめきれなかった。

くらさんの考察

ダイラケの歩みは、偶然の重なりで形が決まった面が大きいと考えられる。兄の死で相方が弟に替わり、薬の影響で動く芸から話す芸へ移り、その直後に民間ラジオが始まった。どれか一つが違っていれば、「三秒に一回」と言われる畳みかけの芸は別の形になっていた可能性がある。
テレビでの代表作が漫才そのものではなく、『スチャラカ社員』のような作り込んだ喜劇だった点も見逃せない。漫才師が台本のある芝居の中心に立ち、毎週同じ役を演じることで、舞台の芸を知らない視聴者にも顔と声が届いたと考えられる。ただし映像がどれだけ残っているかは今回確かめておらず、当時の受け方は事典と回想を通して知るしかない。

ジージへの問いかけ

・日曜の昼に『スチャラカ社員』を見た記憶はあるでしょうか。ダイラケは漫才師として映っていましたか、それとも喜劇役者として映っていましたか。
・「いうてみてみ」のような決まり文句を、子どものころ友だちとまねした覚えはあるでしょうか。
・ラジオで聞く漫才と、テレビで見る漫才とでは、笑いどころが違うと感じますか。

出典

・中田ダイマル・ラケット(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/中田ダイマル・ラケット
・中田ダイマル(コトバンク) https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E7%94%B0%E3%81%A0%E3%81%84%E3%81%BE%E3%82%8B-3237113
・中田ラケット(コトバンク) https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E7%94%B0%E3%82%89%E3%81%91%E3%81%A4%E3%81%A8-3239748
・スチャラカ社員(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/スチャラカ社員
・上方漫才大賞(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/上方漫才大賞

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