No.236新着 横山エンタツ・花菱アチャコ 背広で話芸を見せ、しゃべくり漫才の型を作った二人
横山エンタツと花菱アチャコは、羽織袴の音曲中心の萬歳に代わり、背広姿の話術中心の漫才で人気を得たコンビである。結成は1930年とする資料と1931年とする資料があり、1934年にアチャコの中耳炎をきっかけに解消した。その後も映画や舞台で共演を続けた。
本文と出典
あらまし
横山エンタツと花菱アチャコは、吉本興業の舞台で人気を集めた漫才コンビである。コトバンクに載る各種事典は、二人を「しゃべくり漫才」の典型を作った存在として扱う。それまでの漫才は羽織袴で、歌や楽器の入る音曲中心の芸が多かった。二人は背広姿で、会話のやり取りそのものを芸にした。
コンビの期間は短い。結成を1930年とする資料と1931年とする資料があり、解消は1934年とする資料が多い。それでも、代表的な仕事として語られる「早慶戦」は、今も漫才の歴史を語るときに必ず出てくる。
主なできごと
・1896年 横山エンタツ(本名・石田正見)が兵庫県三田市に生まれる(新撰芸能人物事典)
・1897年 花菱アチャコ(本名・藤木徳郎)が生まれる。出生地は福井県勝山町とする資料と大阪とする資料がある
・1915年 アチャコが別の相方と組み、漫才師に転向する(新撰芸能人物事典、ブリタニカ)
・1930年 エンタツとアチャコがコンビを組む(ブリタニカ、日本人名大辞典、文春オンライン掲載の記事)。1931年とする資料もある
・1934年 アチャコが中耳炎を患い、コンビを解消する(新撰芸能人物事典)
・1935年 アチャコが「アチャコ劇団」を結成し、エンタツと映画や劇団で共演する(同)
・1952年 アチャコがNHKのラジオドラマで戦前以上の人気を取り戻す(同)
・1971年 エンタツが亡くなる
・1974年 アチャコが亡くなる
・1996年 二人とも「上方演芸の殿堂」に顕彰される
くわしく 結成の年が資料で分かれる
コトバンクの花菱アチャコの項を見ると、エンタツとの新コンビの結成年は事典ごとに違う。新撰芸能人物事典と20世紀日本人名事典は1931年、日本人名大辞典とブリタニカ国際大百科事典は1930年としている。文春オンライン掲載の記事も1930年とする。
エンタツの項でも同じ揺れがある。日本人名大辞典は、1929年に漫才一座を編成し、翌1930年にアチャコと組んだと書く。新撰芸能人物事典と20世紀日本人名事典は、1931年に吉本入社後にコンビを組んだとする。どの年が正しいかは、確かめた範囲では決められない。入社の時期と一座の編成の時期のどちらを結成と数えるかの違いとも考えられるが、辞典はその説明をしていないので、推測にとどまる。
二人の経歴は対照的である。アチャコは10代で新派の舞台に立ち、喜劇一座を経て漫才に移った叩き上げである。文春オンラインの記事は、アチャコが大学出のエンタツの感覚についていくのに苦労し、それが時代感覚を保つ勉強につながったと伝える。エンタツは中学在学中に家出し、東京・浅草の舞台に立ったと新撰芸能人物事典にある。
くわしく 背広と「早慶戦」
エンタツの項によれば、二人は話術を中心にした漫才で人気を得た。チョビひげにメガネ、当時珍しかった背広姿も話題になった。アチャコの項は、羽織袴から背広に改めたことを、しゃべくり漫才の典型づくりの一部として書く。
代表作は「早慶戦」である。東京六大学野球を題材にした漫才で、アチャコの項には「象の卵」も人気作として並ぶ。エンタツの項は、新作の多くがエンタツ自身の作で、中でも「早慶戦」が大ヒットし、吉本の漫才全盛の基礎を作ったともいわれる、と書く。ただし、この漫才がいつ初演されたかは、開いた資料では確かめられなかった。ネタの中身は著作物なので、ここでは書かない。
世界大百科事典(旧版)の記述として、エンタツの項には別の筋の話も載っている。アチャコとの掛け合いで話芸の芽をつかみ、のちに朝日新聞の白石凡が作家の秋田実を紹介したことが、芸をさらに発展させる契機になったという。
くわしく 解消のきっかけとその後
解消のきっかけは、アチャコの病気である。新撰芸能人物事典は、1934年に中耳炎を患ってコンビを解消したとする。文春オンラインの記事は、アチャコが大阪の赤十字病院に入院したこと、入院前の新橋演舞場の漫才名人大会でエンタツの声が聞き取りにくくなっていたことを書き、退院後にはエンタツが杉浦エノスケと別のコンビを組んでいたと伝える。この記事は解消の年を明記していないので、年は事典の1934年に従う。
アチャコは以前の相方と再びコンビを組んだ。解消直後の心境について、息子には「目の前が真っ暗になった」と語ったと記事にある。
漫才のコンビは再結成されなかった。それでも二人は、映画や舞台では共演を続けた。アチャコは1935年にアチャコ劇団を結成し、1947年に解散した。エンタツは日本人名大辞典によれば1942年にエンタツ劇団を結成し、戦後に解散してラジオやテレビに出た。エンタツの二男は喜劇俳優の花紀京である。
戦後のアチャコは、1952年にNHKの連続ラジオドラマ「アチャコの青春手帖」「お父さんはお人好し」で戦前以上の人気を取り戻した。流行語になった「ムチャクチャでござりまするがな」の一言でも知られる。
なぜ受けたのか
資料から確かめられるのは、背広という見た目の新しさと、音曲より会話を前に出した芸の形である。題材に東京六大学野球を選んだ点も、当時の客席が身近に感じる話題を漫才に持ち込んだものといえる。ただし、客席の反応や人気の理由を直接記した資料は今回開いていない。
評価の分かれる点
結成年は、上に書いたとおり1930年と1931年に分かれる。漫才の「起源」をどこに置くかも、見方が分かれる。ここで開いた事典類は、二人がしゃべくり漫才の「典型を作った」と書くにとどまり、創始者と言い切ってはいない。起源をどう数えるかは断定しない。
くらさんの考察
二人のコンビ期間は4年ほどにすぎない。それでも名が残るのは、芸の型が後の漫才の土台として語られ続けたからだと考えられる。背広と会話中心という形は、今の漫才師の舞台にも続いて見える。
もう一つ、コンビ解消後に二人が劇団や映画に広がったことも見ておきたい。漫才は舞台の芸であると同時に、喜劇俳優としての入口にもなった。エンタツが解消後に自分の劇団を持ち、アチャコがラジオドラマで戦後に再び人気を得たことは、その例と考えられる。ただし、これは事典の経歴から読み取った推測であり、本人たちの意図を示す資料は確かめていない。
ジージへの問いかけ
・ジージが子どものころ、ラジオやテレビで見聞きしたアチャコは、漫才師というより喜劇俳優の顔だったでしょうか。
・羽織袴から背広に変わっただけで、客席の受け取り方はどれほど違ったと思いますか。
・「早慶戦」のように野球を題材にした笑いは、昭和30年代の演芸ブームでも身近だったでしょうか。
出典
・コトバンク 花菱アチャコ(新撰芸能人物事典、20世紀日本人名事典、日本人名大辞典、ブリタニカ国際大百科事典、デジタル大辞泉などの記述) https://kotobank.jp/word/%E8%8A%B1%E8%8F%B1%E3%81%82%E3%81%A1%E3%82%84%E3%81%93-3191043
・コトバンク 横山エンタツ(新撰芸能人物事典、日本人名大辞典、世界大百科事典などの記述) https://kotobank.jp/word/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E3%81%88%E3%82%93%E3%81%9F%E3%81%A4-3191042
・文春オンライン 花菱アチャコ コンビ解消が仕事でも家庭でも転機になった(有料会員向けの途中まで確認) https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h10003
この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージがよろず研究室でくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。