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No.207新着 桂枝雀 「緊張の緩和」で笑いを説明し、英語落語にも挑んだ米朝門下の上方落語家

桂枝雀(1939〜1999)は1961年に三代目桂米朝へ入門し、1973年に二代目枝雀を襲名した上方落語家である。笑いは緊張と緩和の釣り合いから生まれるという考えを唱え、1980年代には英語落語を始めて海外でも演じた。1999年4月19日に亡くなった。

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登録日時
2026年10月26日 18:19
出典を確かめた日
2026年10月26日
分野
芸人と作り手
立場
くらさんの考察
タグ
落語新着上方新着海外とのつながり新着
芸人・番組
桂枝雀、桂米朝、緊張の緩和、らくごDE枝雀、英語落語、桂南光
資料の種類
事典・概説
年代
1939〜1999年

本文と出典

あらまし

桂枝雀(二代目)は1939年8月13日、兵庫県神戸市に生まれた。本名は前田達という。神戸大学文学部に進んだが中退し、1961年に桂米朝に入門した。前名は桂小米である。1973年に二代目枝雀を襲名し、上方落語の人気者になった。笑いの仕組みを自分の言葉で説明しようとしたこと、英語で落語を演じたことが、この人の大きな特徴である。1999年4月19日に亡くなった。

主なできごと

・1939年 8月13日、神戸市に生まれる
・1961年 桂米朝に入門する(ウィキペディアは1959年に入門を許され、1961年4月に住み込みの弟子になったと書く)
・1962年 大阪の千日劇場で、小米の名でデビューする
・1973年 10月、道頓堀角座で二代目桂枝雀を襲名する(笑福亭枝鶴、桂福團治との三人同時の襲名)
・1980年代前半 英語落語を始める。1984年に米国ペンシルベニア州で英語版の『夏の医者』を演じたとされる
・1985年 7月、大阪で第1回の英語落語独演会を開く(1995年までに計12回)
・1987年 6月、ホノルル、ロサンゼルス、バンクーバーで初の海外英語公演を行う
・1988年 自作の英語落語が英語の教科書に載る
・1998年 1月14日、高松での高座が最後の高座になる
・1999年 3月に自宅で自ら命を絶とうとして意識が戻らず、4月19日に亡くなる

米朝一門のなかで

入門のきっかけは、高校時代から素人演芸会に出ていて、審査員だった米朝を知ったことだという。コトバンクがこの経緯を記している。小米時代の芸を、脚本家の小佐田定雄は「繊細で鋭角的」と評したと、ウィキペディアは伝える。襲名後は動きや声の大きい高座で全国的な人気を得た。『宿替え』『代書屋』『くやみ』が代表的な演目として挙げられる。弟子には桂南光(三代目)、桂雀三郎、桂文我、桂雀々らがいる。

緊張の緩和

枝雀は、笑いは緊張と緩和の釣り合いから生まれるという考えを唱えた。著書『らくごDE枝雀』(ちくま文庫)の目次には「まずは緊張の緩和から」という章がある。ウィキペディアによれば、この考えの一部として、落語のオチ(サゲ)を「ドンデン」「謎解き」「へん」「合わせ」の四つに分けた。詳しい中身までは、確かめた資料では分からなかった。ここでは、笑いを感覚任せにせず、仕組みとして言葉にしようとした人だった、とだけ記す。

英語落語

枝雀は趣味の英語を生かして、英語で演じる落語を開いた。コトバンクはこれを新しいジャンルの開拓と書く。自作の『ロボット・シズカ・チャン』は、1988年から英語の教科書に載った。海外の公演では、言葉が分からない客にも身ぶりと声の調子で届けようとしたと紹介されている。

評価の分かれる点

・襲名後の芸について、ウィキペディアには賛否の両方が載る。三遊亭圓楽は小米時代の古典のほうが好きだと述べ、写実から離れたと批判した。千原ジュニアや松本人志は表現力を高く評価している
・「オーバーアクションだ」という見方には、桂南光が心外だとし、抑えるところは抑え、理屈に基づいて演じていたと反論している
・芸術選奨の新人賞の年は、コトバンクが1982年、ウィキペディアが1983年と書き、資料で食い違う。本稿では年を断定しない
・死去の経緯は、コトバンクが自ら命を絶とうとした後の死去と記す一方、同じページがブリタニカの小項目事典の「心不全」という記述を挙げている。ウィキペディアは、意識が戻らないまま心不全で亡くなり、遺書や明確な動機は見つかっていないと書く

なぜ受けたのか

受けた理由を直接説明する資料は、確かめた範囲では見つからなかった。確かめられたのは、襲名後に全国的な人気を得たこと、NHKのドラマや映画にも出たこと、1982年に日本放送演芸大賞を受けたとウィキペディアが書くことである。古典の噺を土台に、客席全体に届く大きな動きと声で笑いを作ったことが、劇場の客にもテレビの前の客にも通じたと考えられる。また笑いの理屈を言葉にしたことは、弟子や後の世代が自分の芸を考える手がかりになったのではないか、とくらさんは考える。ただし、これは資料にある説明ではなく、推測である。

くらさんの考察

枝雀の仕事は、伝統の芸に「なぜ笑えるのか」という問いを持ち込んだものと考えられる。英語落語も、言葉が通じない場で笑いが成り立つかを試す実験だったのかもしれない。一方で、晩年の病と最期は、笑いを突き詰める仕事の重さを思わせる。ただし、病の原因や芸との関係を結びつけて語る資料は確かめていないので、決めつけない。

ジージへの問いかけ

・ジージが子どものころ、テレビや寄席で枝雀を見たことはありますか。大きな動きの高座は、どう見えましたか
・「笑いは緊張と緩和」という説明を聞いて、自分が笑った場面に当てはまると思いますか
・言葉の通じない客に落語を届ける英語落語を、ジージはどう受け止めますか

出典

・ウィキペディア「桂枝雀 (2代目)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/桂枝雀_(2代目)
・コトバンク「桂枝雀」 https://kotobank.jp/word/%E6%A1%82%E6%9E%9D%E9%9B%80-1290958
・筑摩書房『らくごDE枝雀』 https://chikumashobo.co.jp/product/9784480027771/

この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージがお笑いQAでくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。