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No.32新着 漫才 祝いの門付け芸が、背広の二人のしゃべりに変わった

漫才のもとは、家々を回って祝いの言葉を述べた萬歳である。1930年に横山エンタツ・花菱アチャコが背広姿でしゃべるだけの形を始め、1933年に吉本が「漫才」の字を使い始めた。ボケとツッコミは萬歳の二役に由来するとされ、今は会話のまま進むしゃべくりと、寸劇に入るコント漫才が並んでいる。

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登録日時
2026年10月23日 23:51
出典を確かめた日
2026年10月23日
分野
ジャンル
立場
くらさんの考察
タグ
漫才新着上方新着東京新着吉本興業新着M-1グランプリ新着テレビ新着
芸人・番組
玉子屋円辰、横山エンタツ・花菱アチャコ、リーガル千太・万吉、漫才ブーム、M-1グランプリ
資料の種類
事典・概説
年代
明治末〜2025年

本文と出典

あらまし

漫才は、二人(ときに三人)が舞台の中央に立ち、会話で笑わせる芸である。元をたどると、家々を回って祝いの言葉を述べた萬歳という芸能に行き着く。明治の末に大阪で寄席の芸になり、1930年に横山エンタツ・花菱アチャコが背広姿でしゃべるだけの形を始めた。これが今の漫才の原型とされる。テレビの時代には、1980年の漫才ブームと2001年に始まったM-1グランプリが、漫才を若い世代の芸として押し上げた。

主なできごと

・平安時代 萬歳が成立したとされる。祭礼での予祝芸能や門付けとして演じられた
・幕末 尾張萬歳や三河萬歳の影響を受けた三曲萬歳が寄席の芸として復活する
・明治末 大阪の玉子屋円辰が音楽性の強い芸で人気を得て、萬歳と区別して「万才」の字を使う
・1917年 上方出身の日本チャップリン・梅廼家ウグイスが東京で初めて万才を演じる
・1930年 吉本興行部の横山エンタツ・花菱アチャコが、しゃべりだけの漫才を始める
・1933年 吉本の宣伝誌『吉本演藝通信』が「漫才」への改称を宣言する
・1935年 東京で帝都漫才組合が約80組で発足する(今の漫才協会の起こり)
・1966年 上方漫才大賞が始まる
・1971年 東京の漫才協団(今の漫才協会)が真打制度を取り入れる
・1980年 『激突!漫才新幹線』『THE MANZAI』から漫才ブームが起こる
・2001年 島田紳助の発案でM-1グランプリが始まる。初代王者は中川家
・2020年 西川きよしが漫才師として初めて文化功労者に選ばれる
・2025年 M-1グランプリの出場が1万1521組で過去最多となり、たくろうが優勝する

ボケとツッコミはどこから来たか

萬歳は太夫と才蔵の二人組で演じる芸で、ボケとツッコミはこの二役に由来するとされる。ボケは元は「とぼけ役」と呼ばれ、紹介の「つっこみと、とぼけ」がつまって「つっこみと、ぼけ」になったという。明治から大正の一時期、ツッコミは「シン」と呼ばれた。ツッコミの始まりを、玉子屋円辰と代役の太鼓たたきのやりとりに求める説もある。漫才作家の秋田實の論文によるとされるが、ウィキペディアでは出典の確認を求める注記がついている。
役は固定していない。ツッコミがいったんボケに乗ってから突っ込む「ノリツッコミ」のように、やりとりの中で役が入れ替わることもある。三人組では、ボケ二人にツッコミ一人の形がいちばん多い。

しゃべくり漫才とコント漫才

エンタツ・アチャコ以前の万才は、歌や音曲を中心にした芸だった。二人は背広を着て、日常の言葉だけで掛け合う形を作り、大きな人気を得た。上方の寄席は長く落語が中心で、万才師の多くは安い端席にしか出られなかったが、しゃべくり漫才の人気で立場が入れ替わっていく。演芸研究者の神保喜利彦は、漫才に決まった型がなく「なんでもあり」だったことが地位を高めた理由だと見ている。
今の漫才には、会話のまま進むしゃべくりのほかに、設定を振って寸劇に入るコント漫才がある。寸劇に入ることを「コントイン」と呼ぶ。2020年のM-1でマヂカルラブリーが優勝したときには、ほとんど会話をしないネタが「漫才なのか」と議論になった。

東京の漫才

東京で万才が演じられた1917年ごろ、東京の番組表では「万才」ではなく「掛け合い」と書かれていた。落語家の柳家金語楼が弟子二人に掛け合いをさせたのが、のちのリーガル千太・万吉である。1935年の帝都漫才組合は戦後に漫才研究会(1955年、初代会長リーガル万吉)、漫才協団(1964年)、漫才協会(2005年)と名を変えた。漫才協会は1971年から真打制度をもち、2012年4月から浅草の東洋館で毎月1日から19日まで定席を開いている。2023年からはナイツの塙宣之が会長を務める。

なぜ受けたのか

1980年の漫才ブームは、テレビの数字に表れている。関西テレビ制作の『激突!漫才新幹線』が1980年1月に関西で27.2%、フジテレビの『THE MANZAI』第5回が関東で32.6%、関西で45.6%の視聴率をとった。吉本の木村政雄は、このブームで関西弁が東京でも受け入れられるようになったと述べている。
M-1は決勝のネタ時間を約4分と決め、賞金1000万円を掲げた。塙宣之は、この時間の短さを寄席の漫才との違いとして論じている。短い時間に笑いの数を詰め込む競争が、若い漫才師のネタ作りを変えたと考えられる。2021年に優勝した錦鯉は、翌年に1000万円以上の月収を得たとされ、大会が芸人の暮らしを一夜で変える場になった。

評価の分かれる点

「漫才」の字を考えたのは吉本の橋本鐵彦とする説が一般的だが、林正之助とする説もある。1932年3月の吉本の社内資料にはすでに「漫才」が営業品目として出てくるという指摘もあり、誰がいつ決めたかは確定していない。漫才とコント漫才の境目、つまりどこまで寸劇に入ると漫才でなくなるのかも、2020年のM-1以来たびたび議論になっている。

くらさんの考察

漫才が型のない芸として始まったことは、その後の変わりやすさにつながっていると考えられる。落語には古典の演目があり、講談には読み物があるが、漫才には受け継ぐ台本がない。そのため、その時代の話し言葉や流行をすぐに取り込める。反面、同じネタを何十年も磨く芸にはなりにくい。M-1の4分という枠は、この新しさを競う性質をさらに強めたと考えられる。

ジージへの問いかけ

・ジージの記憶にある最初の漫才師はだれでしょうか。ラジオでしたか、テレビでしたか
・1980年の漫才ブームのとき、東京の人が関西弁の漫才で笑うのを見て、意外に感じましたか
・最近のコント漫才を見て、「これは漫才ではない」と思ったことはありますか

出典

・ウィキペディア「漫才」 https://ja.wikipedia.org/wiki/漫才
・ウィキペディア「ボケ (漫才)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/ボケ_(漫才)
・ウィキペディア「上方漫才」 https://ja.wikipedia.org/wiki/上方漫才
・ウィキペディア「漫才協会」 https://ja.wikipedia.org/wiki/漫才協会
・ウィキペディア「漫才ブーム」 https://ja.wikipedia.org/wiki/漫才ブーム
・琉球新報「M-1、ドンデコルテが準V」(2025年12月22日) https://ryukyushimpo.jp/national/entry-4891910.html

この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージがお笑いQAでくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。