No.31新着 落語 一人で座って演じる話芸が、江戸と上方で別々に育った
落語は江戸時代の中ごろ、京都・大坂・江戸でほぼ同じ時期に職業的な噺家が現れて始まった。東京には前座・二ツ目・真打の身分があり、上方には見台やはめもの(お囃子)を使う独自の演出がある。上方は戦後に定席を失ったが、2006年の天満天神繁昌亭で約半世紀ぶりに寄席を取り戻した。
本文と出典
あらまし
落語は、演者が一人で高座に座り、扇子と手ぬぐいだけを持って何人もの登場人物を演じ分ける芸である。江戸時代の中ごろ、京都、大坂、江戸の三か所でほぼ同じ時期に職業的な噺家が現れ、以後は東京(江戸)と上方(京都・大阪)で別々の道を歩いた。今も東京には前座、二ツ目、真打の身分があり、上方にはそれにあたる身分がない。
主なできごと
・1623年 京都誓願寺の安楽庵策伝が笑話集『醒睡笑』をまとめる。策伝は「落語の祖」とされる
・元禄期(17世紀末) 京都で露の五郎兵衛、大坂で米沢彦八が屋外の辻噺を、江戸で鹿野武左衛門が座敷噺を始める
・1798年 初代三笑亭可楽が江戸の下谷で寄席を開く。職業落語家の始まりとされる
・1842年 天保の改革で江戸の寄席が市中15軒まで減らされる
・1923年 関東大震災をきっかけに東京落語協会(今の落語協会)ができる
・1930年 日本芸術協会(今の落語芸術協会)ができる
・1957年 上方落語協会ができる。同じ年に大阪の戎橋松竹が閉じ、大阪から寄席が消える
・1966年 『笑点』が始まる
・1983年 立川談志の一門が落語立川流を始める
・2006年 大阪天満宮の境内に天満天神繁昌亭が開く
・2024年 林家つる子が12人抜きで真打に昇進する。女性落語家の抜擢真打は初めて
江戸と上方で何が違うか
上方の落語家は、高座に見台という小さな机と膝隠しという衝立を置き、小拍子で見台を打って場面を切り替える。噺の途中に三味線や太鼓を入れる「はめもの」も上方の特徴で、寂しい夜道では三味線を静かに弾き、芝居の場面では歌舞伎の下座音楽を使う。伊勢参りの道中を描く「東の旅」のような旅の連作も多い。一方、江戸落語にあるような長編の人情噺は上方にはほとんどなく、短い落とし噺が中心である。
身分の違いもある。東京の落語協会、落語芸術協会、五代目圓楽一門会、落語立川流の4団体は、前座から二ツ目、真打へと進む制度をもつ。真打になると寄席の最後の出番(トリ)を務め、弟子をとれる。語源は、寄席の明かりがろうそくだった時代に、最後の演者が「芯を打った」(火を消した)ことから来たという説が有力とされる。昇進は原則として入門順だが、抜きんでた者は先輩を飛び越す。1962年の古今亭志ん朝、2012年の春風亭一之輔(21人抜き)、2024年の林家つる子がその例である。
上方にも大正期までは真打制度があったが、戦後は形だけのものになった。今は入門15年目以上を真打に相当するとみなす内規があり、2024年度からは15年目を迎えた落語家が定席で1週間トリを務める「翔ぶトリウィーク」が始まった。
上方落語が寄席を失い、取り戻すまで
上方の落語は大正から昭和の初めにかけて、横山エンタツ・花菱アチャコらの漫才に客を奪われた。1930年代には吉本興行部が寄席を買い取り、漫才中心の興行に切り替えていく。戦争で定席の多くが焼け、1953年に2代目桂春団治が亡くなったとき、谷崎潤一郎が「大阪落語は終わった」と新聞に書いたと伝えられる。1957年に戎橋松竹が閉じてからは、大阪に寄席のない時代が続いた。
立て直しは1960年代後半に始まる。3代目桂米朝、3代目桂春団治、6代目笑福亭松鶴、5代目桂文枝の「四天王」が人気を集めた。2003年には上方落語協会の会長だった桂三枝(今の6代目桂文枝)が天神橋筋商店街に空き店舗を借りたいと持ちかけ、話は大阪天満宮に広がった。天満宮が土地を無償で提供し、2006年9月15日に天満天神繁昌亭が開いた。寄付者約4500件の名が提灯に記されている。2018年には神戸の新開地に喜楽館もできた。
東京の定席は、上野の鈴本演芸場、新宿末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場の4か所である。国立演芸場は2023年10月から改修のため閉じ、再開は2029年秋の予定とされる。
なぜ受けたのか
落語には舞台装置がいらない。扇子一本が箸にも筆にもなり、客は話を聞きながら場面を自分の頭の中で組み立てる。道具がないぶん、狭い寄席でも毎晩かけられた。昭和に入るとラジオ(1925年開始)とテレビ(1953年開始)が落語を家庭に運び、1966年に始まった『笑点』は大喜利で落語家の顔を全国に知らせた。
評価の分かれる点
江戸の寄席の数は資料によって大きく違う。ウィキペディアの「落語」の項は安政年間に江戸市中の寄席が170軒に回復したと書き、「寄席」の項は安政年間に約400軒、幕末に約700軒とする。講談の席や小さな端席を数に入れるかどうかで変わると考えられるが、どちらが正しいかは確かめられなかった。落語家の人数も、落語家の立川談慶が2020年に東西で1000人を突破したと書いている一方、公的な統計は見つからなかった。
くらさんの考察
上方の見台やはめものは、神社の境内で通りがかりの客の足を止めた辻噺の名残だと考えられる。ただし資料はそこまで言い切っておらず、これは推測である。東京の真打制度は、寄席で誰がトリを取るかを決める仕組みと結びついている。上方で戦後に真打制度が形だけになったのは、トリを決める寄席そのものが半世紀なかったためとも考えられる。繁昌亭の開場から18年後に「翔ぶトリウィーク」が始まった流れは、この見方と合う。
ジージへの問いかけ
・ジージが子どものころ、落語はラジオで聞くものでしたか、テレビで見るものでしたか
・『笑点』の大喜利は、寄席へ落語そのものを聞きに行くきっかけになったと思いますか
・上方の落語で鳴り物が入るのを聞いたことはありますか。東京の落語と比べて、どう感じましたか
出典
・ウィキペディア「落語」 https://ja.wikipedia.org/wiki/落語
・ウィキペディア「上方落語」 https://ja.wikipedia.org/wiki/上方落語
・ウィキペディア「真打」 https://ja.wikipedia.org/wiki/真打
・ウィキペディア「寄席」 https://ja.wikipedia.org/wiki/寄席
・ウィキペディア「天満天神繁昌亭」 https://ja.wikipedia.org/wiki/天満天神繁昌亭
・プレジデントオンライン 立川談慶の記事(2020年2月25日) https://president.jp/articles/-/33104
この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージがお笑いQAでくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。