No.220新着 東京の落語の団体 落語協会と芸術協会の成り立ちと、1978年の分裂が円楽一門・立川流に残したもの
東京の落語家は、1923年にできた落語協会と、1930年にできた日本芸術協会(今の落語芸術協会)を軸に動いてきた。1978年には真打の昇進をめぐって六代目三遊亭圓生が落語協会を出て落語三遊協会を作ろうとしたが、寄席に出られず、翌年の圓生の死で崩れた。そこから円楽一門会が生まれ、1983年には立川談志が立川流を始めた。
本文と出典
あらまし
東京の落語家の団体は、大きく四つある。落語協会、落語芸術協会、円楽一門会、落語立川流である。
このうち前の二つが東京の寄席に交代で出る団体で、後の二つは落語協会の内紛から枝分かれした。
枝分かれの引き金は、二つ目をいつ真打に上げるかという人事の問題だった。
寄席の席亭(経営者)がどの団体を出演させるかを決めるため、団体の争いはそのまま「寄席に出られるか」という問題になった。
主なできごと
・1923年 関東大震災の後、東京の落語界が一つにまとまり、落語協会ができる。初代会長は五代目柳亭左楽
・1924年 左楽らが抜けて睦会を再興し、協会は早くも割れる
・1930年 10月11日、日本芸術協会が設立される。会長は六代目春風亭柳橋、副会長は柳家金語楼
・1967年 落語協会と芸術協会が、寄席の初席などを交互に興行する取り決めを結ぶ
・1972年 五代目柳家小さんが落語協会の会長になる(六代目三遊亭圓生は1965年から会長)
・1977年 12月10日、日本芸術協会が「社団法人落語芸術協会」に改称する
・1978年 5月8日、落語協会の理事会が同年秋の10人の真打昇進を可決し、圓生が反対して脱会を決める。5月24日に落語三遊協会の設立を発表し、6月1日に発足する
・1979年 9月3日、圓生が死去する
・1980年 2月1日、三遊協会が解散し、圓楽を除く圓生門下が落語協会に戻る。圓楽は大日本落語すみれ会を結成する
・1983年 立川談志が落語協会を離れ、落語立川流を始める
・1984年 9月、落語芸術協会が上野の鈴本演芸場と縁を切る
・1993年 池袋演芸場の再開後、両協会が交互に出る定席になる
・2017年 六代目三遊亭円楽が落語芸術協会に客員として入り、寄席に出られるようになる
・2026年 6月29日、落語協会が林家正蔵を会長に選ぶ
落語協会と芸術協会の成り立ち
落語協会は、1923年9月の関東大震災の後、寄席が立ちゆかなくなった東京の落語界が10月に大同団結してできた。ウィキペディアによれば、初代会長は五代目柳亭左楽である。ところが翌1924年5月に左楽ら多くが抜けて睦会を再興し、協会は一年たたずに割れている。
日本芸術協会の起こりは、この睦会の側にある。ウィキペディアの記述では、柳家金語楼がNHKのラジオに出たことを寄席の経営者が咎め、金語楼の一門は寄席に上がれなくなった。そこに吉本興業と千葉博巳が目をつけ、金語楼に新しい協会を作らせる計画を立てた。睦会にいた六代目春風亭柳橋は、左楽の了解を得て参加し、年長で序列が上だったため会長に就いた。金語楼は副会長に回った。
名前の「芸術」は、寄席が落語だけでなく講談や漫才など多様な芸を見せる場だという考えによる、と同じページは書く。つまり芸術協会は、落語協会から分かれた団体というより、別の流れから1930年に立った団体である。
以後、東京の寄席は二つの協会が分け合う形で続いた。1967年には初席などを交互に興行する取り決めが交わされた。
1978年の分裂 真打の人数をめぐって
発端は真打の昇進である。真打は寄席の最後の出番を務め、弟子をとれる身分で、二つ目から上がる。
ウィキペディアの「落語協会分裂騒動」によれば、1965年から会長だった圓生は昇進に厳しく、二つ目のまま長く残る落語家が増えた。1972年に会長になった小さんは、理事会の多数決で決める運営に改めた。1973年には3月と9月に計20人が真打になり、圓生は反対したが、賛成多数で通った。
1978年5月8日の理事会で、小さんと常任理事の圓歌、金馬、柳朝が、秋に10人を真打にする案を出した。圓生は反対したが、これも多数で可決された。圓生は常任理事3人の解任を求めたが、小さんは応じず、圓生はその日のうちに脱会を決めた。弟子の圓楽が同調し、立川談志と古今亭志ん朝を巻き込んで、新しい団体の準備が進んだ。
5月24日、圓生は赤坂プリンスホテルで会見し、落語三遊協会の設立を発表した。会長は圓生、副会長は圓蔵で、脱会の理由には「真打の乱造による落語の質の低下」が挙げられた。
翌25日、新宿末廣亭で四つの寄席の席亭会議が開かれた。鈴本は賛成したが、末廣亭の北村銀太郎が、色物や若手の層が薄いことなどを理由に反対した。結果は、四席亭の総意として新団体の寄席出演を認めず、圓生に協会へ戻るよう勧める声明だった。
圓蔵、圓鏡、志ん朝は協会復帰を選び、談志も発表前に参加を見送った。5月31日に圓生の脱会届は受理され、6月1日に三遊協会は圓生、圓楽、圓窓の一門だけで発足した。定席に出られないため、公民館やホールでの会が活動の場になった。
圓生の死と、その後の三つの流れ
1979年9月3日、圓生は習志野での催しの出番の途中で体調を崩し、同じ夜に急性心筋梗塞で亡くなった。ウィキペディアは、翌1980年2月1日に三遊協会が解散し、圓生門下の多くが遺族の仲介で落語協会に戻ったと書く。一方、コトバンクに載るブリタニカ国際大百科事典の記述は、圓生の没した1979年に解散したとしており、解散の時期は資料で食い違う。
圓楽は戻らず、すみれ会を結成した。ウィキペディアによれば、これが1985年に落語円楽党、1990年に円楽一門会と名を改め、五代目圓楽の没後は五代目円楽一門会と呼ばれた。自前の寄席「若竹」を4年ほど運営したが閉じたという。
落語協会は1980年10月に、大量昇進の代わりに真打昇進試験を導入した。1983年にこの試験で談志の弟子の談四楼と小談志が落ち、別の落語家が受かったことに談志が異を唱え、協会を離れて立川流を始めた。ウィキペディアは、談志は小さんと決裂して破門されたと書く。試験は1987年に廃止された。
立川流は談志の死後、2012年に家元制度をやめた。里う馬が代表を務めたのち、2024年に立川志の輔が代表を引き継いだとされる。ただしこのページには出典の不足が指摘されており、細部は他の資料でも確かめたい。
定席との関係はどう変わったか
分裂で出演の場を失った側は、のちに少しずつ寄席に戻っている。2017年に六代目円楽が芸術協会に客員で入り、立川流の落語家も、芸術協会の定席に呼ばれることが増えた。2023年には円楽一門の好楽が、40年ぶりに落語協会の定席に出た。
一方、芸術協会は1984年9月、落語協会から合同興行を持ちかけられたことをきっかけに鈴本演芸場と縁を切った。鈴本が落語協会の番組だけを組む形は、ここから続く。1993年に池袋演芸場が再開すると、両協会が交互に出る定席になった。
最近の動きでは、落語協会は2026年6月29日に、副会長だった林家正蔵(63)を、柳家さん喬の後任の会長に選んだと、共同通信の配信記事が伝えている。落語芸術協会の会長は、ウィキペディアでは2019年に就いた春風亭昇太である。
評価の分かれる点
1978年の分裂をどう見るかは、立場によって違う。圓生が掲げた「真打の乱造」への批判は、会見当時、世間の支持を得たと書かれている。一方で、昇進が止まれば二つ目の落語家は生活の見通しが立たないという事情もあり、どちらが正しかったかを一つに決めることはできない。
参加者の動きにも説がある。ウィキペディアの記述では6月1日の発足は圓生、圓楽、圓窓の三門だけだが、別のサイトは圓蔵、志ん朝の一門も入っていたと書いており、本記事は前者に従った。
くらさんの考察
団体の分裂は、芸の違いよりも、昇進と寄席の出番という生活の仕組みで起きている。1930年の芸術協会も、1978年の三遊協会も、寄席の経営者との関係が成否を左右した。寄席に出られるかどうかが団体の生命線だった、と考えられる。
また、分かれた側が40年ほどかけて寄席に戻りつつあることは、かつての対立が世代交代で薄れていることの表れとも考えられる。
ジージへの問いかけ
・1978年の騒ぎを、テレビや新聞で見た記憶はありますか。当時は圓生と小さんのどちらに味方する人が多かったでしょうか。
・寄席に通った頃、鈴本や末廣亭で、出る団体の違いを意識したことはありましたか。
・真打をたくさん作ることと、数を絞ることのどちらが落語のためになると思いますか。
出典
・ウィキペディア「落語協会分裂騒動」 https://ja.wikipedia.org/wiki/落語協会分裂騒動
・ウィキペディア「落語協会」 https://ja.wikipedia.org/wiki/落語協会
・ウィキペディア「落語芸術協会」 https://ja.wikipedia.org/wiki/落語芸術協会
・ウィキペディア「落語立川流」 https://ja.wikipedia.org/wiki/落語立川流
・ウィキペディア「円楽一門会」 https://ja.wikipedia.org/wiki/円楽一門会
・コトバンク「三遊亭円楽」(落語三遊協会の項、デジタル大辞泉・ブリタニカ国際大百科事典ほか) https://kotobank.jp/word/三遊亭円楽
・熊本日日新聞(共同通信配信)「落語協会新会長に林家正蔵さん 柳家さん喬さんの後任」 https://kumanichi.com/articles/2008095
この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージがお笑いQAでくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。