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No.217新着 THE MANZAI 数合わせの企画から生まれ、若手漫才師を茶の間の主役にしたフジテレビの特番

『THE MANZAI』は、1980年4月1日から1982年6月15日までに計11回、フジテレビ系で放送された漫才特番である。プロデューサーは横澤彪。編成部への企画提出の数合わせで出した案が採用され、若手漫才師を普段着で出す作りで、第5回は関東32.6%に達した。

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登録日時
2026年10月29日 18:20
出典を確かめた日
2026年10月29日
分野
1980年代
立場
くらさんの考察
タグ
漫才新着テレビ新着東京新着上方新着
芸人・番組
THE MANZAI、横澤彪、ツービート、B&B、島田紳助・松本竜介、ザ・ぼんち
資料の種類
事典・概説
年代
1980〜1982年

本文と出典

あらまし

『THE MANZAI』は、フジテレビが1980年から1982年にかけて放送した漫才の特別番組である。放送は1980年4月1日の第1回から、1982年6月15日の第11回までで、ウィキペディアによれば、その後は定期の放送がなくなった。プロデューサーは横澤彪、ディレクターは佐藤義和と永峰明、構成は大岩賞介である。
出たのは、ツービート、B&B、島田紳助・松本竜介、ザ・ぼんちといった若手の漫才師だった。花王名人劇場の企画と並んで、漫才ブームの基をつくった番組と評されている。

主なできごと

・1980年 4月1日、第1回を放送する(20時〜21時24分、視聴率15.3%)
・1980年 5月20日、第2回(17.2%)
・1980年 7月1日、第3回(27.0%)
・1980年 10月7日、第4回(28.8%)
・1980年 12月30日、第5回「THE MANZAI Grand Prix」を銀座博品館劇場から生中継する(関東32.6%、関西45.6%)
・1981年 3月31日、第6回(18.9%)。以後、第7回は17.9%、第8回は15.8%、第9回は17.5%
・1982年 3月30日の第10回に、柄本明・佐藤B作、明石家さんま・春風亭小朝らが出る
・1982年 6月15日、第11回を放送する
・2001年 5月19日、「THE MANZAI2001 ヤングライオン杯」として関東ローカルで復活する
・2011年 12月17日、「THE MANZAI 2011」の決勝大会を放送する。優勝はパンクブーブー

企画のいきさつ

ウィキペディアによると、第1回の放送日である1980年4月1日は、裏番組にTBSの『4月だョ!全員集合』と日本テレビの『探偵物語』の最終回が重なっていた。フジテレビ内では、当初予定していた制作班が担当を辞退したという。
横澤は編成部から企画の提出を求められ、数合わせで出した『東西対抗漫才大会』が採用された。ゴールデンタイムに漫才の番組を組むのは数十年ぶりだったとされる。ディレクターの佐藤は「失敗してもいい。思い通りの番組を作ろう」と考え、浅草の演芸場で見かけたツービート、星セント・ルイス、B&Bを起用した。
題名も妥協の産物だった。美術デザイナーが背景に「THE MANZAI」の文字を出す案を示し、編成は難色を示した。落としどころとして、長い副題が付けられたという。観客は、大学のサークルに電話をかけて若者を集めた。

見せ方を変えた

従来の演芸番組はスーツ姿で、型どおりの掛け合いを見せるものが多かった。この番組はそれを避け、ディスコ調の音楽、派手なセット、いくつものカメラを使った撮影を取り入れたと、ウィキペディアは記す。
衣装については、2009年のJ-CASTニュースが、横澤の対談本の紹介として次の話を載せている。派手な背広に派手なネクタイという漫才師の定番をやめ、Tシャツやトレーナーなど何でもありにしたという。同じ記事で横澤は、上層部や編成部とぶつかることを恐れなかったと語る。「ケンカしなきゃ土俵なんかできないもん」という発言が紹介されている。

回ごとの出演者と数字

第1回は、ツービート、島田紳助・松本竜介、B&B、横山やすし・西川きよし、ザ・ぼんち、星セント・ルイス、中田カウス・ボタンの7組だった。第2回でカウス・ボタンが外れ、西川のりお・上方よしお、オール阪神・巨人、ぽぱい、海原さおり・しおりが加わる。第3回に春やすこ・けいこ、第4回に太平サブロー・シロー、おぼん・こぼんが入った。ウィキペディアは、ビートたけしが旧番組の全回に出たと記している。
視聴率は第3回から跳ねた。15%台、17%台だった数字が27.0%になり、第5回の関東32.6%、関西45.6%で頂点に達する。ただし、翌1981年の第6回以降は15〜19%台で、第10回と第11回の数字はウィキペディアに載っていない。人気は第5回で最高になり、その後はなだらかに下がったことになる。
第10回は様子が違う。柄本明・佐藤B作、明石家さんま・春風亭小朝、山田邦子・山村美智子、トリオ・ザ・テクノなど、漫才に限らない顔ぶれが並んだ。ブームの終わりが近づくと、番組も漫才一本ではなくなっていたことがうかがえる。

その後の復活

2001年に19年ぶりに復活したが、ウィキペディアによれば、同年8月に予定された第2回は視聴率不振で立ち消えになった。
2011年の『THE MANZAI』は、番組をそのまま戻したものではなく、勝ち抜きの大会に作り直されている。2011年1月にフジテレビが吉本興業に持ちかけて決まり、島田紳助の発案とされるが、本人は同年8月に芸能界を引退した。第2回から日清食品が冠スポンサーに付き、2014年で終わった。2015年からは別の形の番組になっている。

なぜ受けたのか

漫才ブーム全般の分析として、ウィキペディアは次の点を挙げる。会話の速さと毒舌が、それまでの漫才にない新鮮さを生んだ。社会の建前への反発を代弁する笑いとして受け止められた。自作のネタとファッションで、個性を前面に出せた。観客は若者が中心で、人気漫才師はアイドルのように扱われた。
この番組に限って言えば、確かめられるのは作りの側の事情である。若手を普段着で出し、客席も若者でそろえた。横澤は、集まった漫才師の感覚が制作陣の先を行っていたと振り返っている。作り手が型を決めず、出る側の勢いに任せた面があったと考えられる。

評価の分かれる点

当時の評価は割れていた。松尾羊一はゴシップや卑猥なギャグの増加を指摘し、小島貞二は台本やストーリー性の欠如を嘆いた。一方、筑紫哲也は建前の社会の鬱屈を晴らす「本音」を評価し、澤田隆治はスーツを脱いだ点を時代感覚として認めた。
ブームの終わりも一致しない。1982年頃に静まったとする見方が多いが、金森三夫は2年続いたと見る。中島銀兵は、実態は「キャラクターブーム」だったと述べた。

くらさんの考察

この番組は、企画の動機を見ると、ブームを狙った大作ではない。編成の数合わせ、裏番組の強さ、制作班の辞退という事情の中で、少人数のスタッフが好きにやらせてもらった結果に見える。成功の要因を後から整理するのは簡単だが、始まりはもっと偶然に近かったと考えられる。
また、視聴率が第5回で頂点に達してから下がったことは、番組の寿命が短かった理由の一つになったと考えられる。ただし、数字だけで終了の理由を決めることはできず、資料にも理由は書かれていない。

ジージへの問いかけ

・1980年の暮れに、銀座からの生中継を見た記憶はありますか。大晦日の前日に漫才を見る習慣は、当時の家にあったでしょうか。
・漫才師がスーツをやめてTシャツなどで出てきたとき、ジージには新しく見えましたか。それとも違和感のほうが強かったですか。
・今の漫才の大会と、当時の特番とでは、見ているときの気分はどう違うと思いますか。

出典

・THE MANZAI (1980年代のテレビ番組)(ウィキペディア)https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_MANZAI_(1980年代のテレビ番組)
・漫才ブーム(ウィキペディア)https://ja.wikipedia.org/wiki/漫才ブーム
・日清食品 THE MANZAI(ウィキペディア)https://ja.wikipedia.org/wiki/日清食品_THE_MANZAI
・横澤彪(ウィキペディア)https://ja.wikipedia.org/wiki/横澤彪
・「いいとも」横澤彪の対談本 「笑い変える」までの苦労とは(J-CASTニュース、2009年8月11日)https://www.j-cast.com/trend/2009/08/11047238.html
・太田省一「だから『いいとも!』は32年続く長寿番組になった…」(PRESIDENT Online、2024年4月7日)https://president.jp/articles/-/80257

動画

・【お笑い熱狂時代】 1980年の漫才ブームを振り返る。(ぼんちおさむ【公式チャンネル】 Lv73)https://www.youtube.com/watch?v=rH4qE1-jbbY

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