No.215新着 松竹芸能 戎橋松竹から続く、吉本と並ぶもう一つの上方の笑いの事務所
松竹芸能は、大阪の戎橋松竹を仕切っていた勝忠男が1954年に作った新生プロダクションと、秋田實の上方演芸が1958年に合併して生まれた松竹新演芸を前身とする。1962年に今の名になり、1968年には養成所を開いた。吉本興業とは長く芸人の引き抜きや共演拒否で対立したが、1990年代以降は共演が増えた。
本文と出典
あらまし
松竹芸能は、大阪市中央区に本社を置く芸能事務所である。会社の公式ページは創業を1956年とする。ウィキペディアは、1956年8月11日に三宮松竹株式会社として設立された会社が、のちに松竹芸能の名を引き継いだと書く。一方で芸人の事務所としての始まりは、1958年11月1日に松竹新演芸株式会社が設立された時とされる。ここでは後者を芸人の事務所としての出発点として扱う。
松竹の傘下にあり、公式ページは事業内容にタレント・俳優の養成、興行などを挙げる。本稿は、芸人の事務所としての歩みに絞る。
主なできごと
・1947年 9月11日、戎橋松竹が大阪・千日前に開場する
・1954年 戎橋松竹の支配人だった勝忠男が千土地興行を辞め、新生プロダクションを作る
・1958年 新生プロダクションと上方演芸が合併し、松竹新演芸が設立される
・1962年 10月1日、松竹芸能株式会社に改称する
・1968年 養成所を開く。同じ年、秋田實らが離れてケーエープロダクションを興す
・1970年 中田ダイマル・ラケットが吉本興業へ移る
・1984年 養成所の第1回オーディションを開く。角座が3年間閉まる
・2001年 三宮松竹を松竹芸能株式会社に改称し、事業を引き継ぐ
・2011年 東京初の劇場、新宿角座を開く
・2018年 7月22日、道頓堀角座が閉館する
・2019年 1月1日、DAIHATSU心斎橋角座を開く
戎橋松竹から松竹新演芸へ
戎橋松竹は、松竹の創業者の一人である白井松次郎が、映画館を演芸場に改めて1947年に開いた劇場である。経営は千土地興行で、千土地は開場当初、松竹の関係会社だった。中田ダイマル・ラケット、夢路いとし・喜味こいし、横山ノックらの漫才や、五代目笑福亭松鶴、三代目桂米朝らの落語が出た。閉場は1956年とする説と1957年1月とする説がある。
支配人の勝忠男は、1954年に千土地を辞め、常連の芸人の一部を連れて新生プロダクションを作った。これが後の松竹芸能につながる。千土地側は、残った芸人を専属にし、秋田實の上方演芸の芸人も迎えて対抗した。1958年、新生プロと上方演芸が合併し、松竹が資本を入れて松竹新演芸ができた。道頓堀の角座を中心に、神戸松竹座や新世界新花月にも芸人を出した。
松竹演芸部との関係は、確かめた資料の範囲では分からなかった。ウィキペディアの「松竹演芸場」の項は、東京の浅草松竹演芸場と新宿松竹文化演芸場を指し、関西の角座は含まないと断っている。東京の松竹の演芸の興行と、大阪の松竹芸能は、別のものとして見ておくのがよい。
養成所と所属した芸人
養成所は1968年にでき、吉本興業のNSC(1982年)より先だった。ウィキペディアによれば、1984年3月の第1回オーディションに、森脇健児、山田雅人、東ちづるが合格した。名称は2008年に松竹芸能タレントスクール、2021年4月に松竹芸能養成所と変わった。
過去の所属として、中田ダイマル・ラケット、レツゴー三匹、正司敏江・玲児が挙がる。現在の所属として、ウィキペディアは、ますだおかだ、アメリカザリガニ、安田大サーカス、よゐこの有野晋哉、ヒコロヒー、紺野ぶるまらを挙げる(2025年9月現在の記載)。笑福亭鶴瓶は1972年に六代目笑福亭松鶴に入門した落語家で、いまの所属は別の事務所だが、松竹芸能にも籍を残すと書かれている。
吉本興業とのちがいと並び方
両社の対立は戦前にさかのぼる。ウィキペディアによれば、1927年に吉本が松竹所有の道頓堀弁天座で興行して成功すると、白井松次郎が演芸への進出を図って吉本の人気芸人を引き抜き、吉本の林正之助が松竹の大阪事務所に乗り込む事件になった。1939年にも芸人の引き抜きがあり、約2か月後に警察の調停で収まった。
1959年に吉本が演芸へ戻ったあとも引き抜きが続き、のちに互いに引き抜かない協定が結ばれた。1970年に松竹の看板だった中田ダイマル・ラケットが吉本へ移り、関係はさらに悪くなった。1980年代の後半まで、両社の芸人は原則として共演しない状態が続いたとされる。林正之助が亡くなった1991年から共演が少しずつ増え、2002年にはますだおかだとアメリカザリガニが、なんばグランド花月の通常公演に出た。
規模の差は大きい。吉本は寄席から映画館、新喜劇、養成所、全国のテレビへ手を広げ、松竹芸能は1980年代の漫才ブームのあと劣勢になった。ウィキペディアは、1984年に角座を閉めたこと、1998年に全従業員の約4分の1を対象に希望退職を募ったことを記している。
なぜ受けたのか
戎橋松竹の時代、大阪の寄席は千日前に集まっていた。その出演者を事務所にまとめた形が松竹芸能の始まりで、客席と芸人の近さが土台にあったと考えられる。のちに落語家の笑福亭鶴瓶や、テレビで売れた芸人が出たのは、舞台とテレビの両方に芸人を送り出せたためと考えられる。
評価の分かれる点
松竹芸能の始まりを、1954年の新生プロ、1956年の三宮松竹、1958年の松竹新演芸のどこに置くかは、資料によって違う。会社の公式ページは1956年を創業とし、ウィキペディアの沿革は1958年から語る。養成所が吉本より先という点も、ウィキペディアの記述に拠るもので、他の資料では確かめられていない。
くらさんの考察
吉本と松竹芸能の差は、規模だけではなく、劇場をどこに置いたかにも表れていると考えられる。松竹芸能は、道頓堀の角座を中心に、閉館のたびに別の場所へ劇場を移して続けてきた。劇場を持ち続けたことが、東京の新宿角座や心斎橋角座の開場にもつながっていると考えられる。
ジージへの問いかけ
・ジージが子どもの頃から大阪や関西の芸人を見てきた中で、松竹と吉本の違いを意識したことはあるでしょうか。
・中田ダイマル・ラケットが吉本へ移ったことは、当時の客席にどう受け止められたと思いますか。
・事務所が違うと共演しない、という決まりをどう思いますか。
出典
・松竹芸能 会社概要 https://www.shochikugeino.co.jp/company/
・ウィキペディア「松竹芸能」 https://ja.wikipedia.org/wiki/松竹芸能
・ウィキペディア「戎橋松竹」 https://ja.wikipedia.org/wiki/戎橋松竹
・ウィキペディア「松竹演芸場」 https://ja.wikipedia.org/wiki/松竹演芸場
・ウィキペディア「笑福亭鶴瓶」 https://ja.wikipedia.org/wiki/笑福亭鶴瓶
動画
・松竹芸能タレントスクール合宿2014秋ダイジェスト(30秒)(松竹芸能 公式チャンネル/SHOCHIKU GEINO ch)https://www.youtube.com/watch?v=Sc642P3Jl_8
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