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No.231新着 禁演落語 戦時下に落語家が53演目を自粛し、台本を「はなし塚」に納めた

禁演落語は、日中戦争から太平洋戦争へ向かう時期に、落語界が53の演目の口演を控えたものである。台本は1941年10月30日に浅草の本法寺のはなし塚に納められ、1946年9月30日の復活祭で解かれた。自主規制だったのか、官の圧力による半ば強制だったのかは、資料によって書き方が分かれる。ウィキペディアと、事典的な記事を開いて確かめた範囲だけを書く。

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登録日時
2026年11月3日 18:19
出典を確かめた日
2026年11月3日
分野
大正・昭和戦前(1912〜1945)
立場
評価の分かれる点
タグ
落語新着東京新着寄席・劇場新着
芸人・番組
講談落語協会、野村無名庵、はなし塚、長瀧山本法寺、小島貞二
資料の種類
事典・概説
年代
1940〜2003年

本文と出典

あらまし

禁演落語とは、戦時中に落語家たちが「時局にふさわしくない」として口演を控えた演目の総称である。数は53、取り上げられた多くは遊郭や色恋を扱う噺だった。
控えた演目の台本は、浅草の長瀧山本法寺の境内に建てた「はなし塚」に納められた。1946年に解禁され、その後は演者の側から見直され続けている。
この記事では、まず年月と数字を資料ごとに並べ、食い違うところは食い違いのまま書く。禁演の中身は、演目名を挙げるにとどめる。

主なできごと

・1940年9月13日 講談落語協会が、艶笑ものなどの口演禁止を表明したと、小島貞二が記している(ウィキペディアによる)
・1940年9月 協会が警視庁に禁演落語を届け出る。新聞は警視庁保安部が53演目の上演禁止を通達したと報じた
・1941年4月中旬 鈴本演芸場で、野村無名庵が禁演演目を読み上げて周知した(ウィキペディア)
・1941年10月30日 浅草の長瀧山本法寺に、はなし塚が完成する
・1946年9月30日 「禁演落語復活祭」で解禁される
・1947年5月30日 進駐軍の民間情報教育局(CIE)の指示を受け、27演目が新たに自粛の対象になる(ウィキペディア)
・1949年4月 法要で、その27演目の自粛が解かれる
・2002年 はなし塚まつりが毎年開かれるようになる
・2003年 毎年8月下席に浅草演芸ホールで「禁演落語の会」が開かれるようになる

くわしく 何が、いつ決まったのか

まず年がそろわない点を押さえておく。「1941年」と書く記事が多い。科学技術振興機構(JST)のサイエンスポータルは、禁演を1941年のこととし、53の演目を落語家たちが自主規制して上演しないことにしたと書く。
一方ウィキペディアの「禁演落語」は、決定をもう少し早くに置く。それによると、講談落語協会は1940年9月13日に口演禁止を表明し、鈴本演芸場の総会で禁演演目が確認された。協会は9月16日に警視庁へ届け出ている。1941年は、禁演が周知され、はなし塚ができた年にあたる。
この記事の本文では、決定を1940年、塚の完成を1941年と分けて書く。ただし1940年の日付は、今回開いた資料ではウィキペディア一つにしか見当たらなかった。大づかみには「1940〜41年にかけて」と受け取るのが安全である。

くわしく 選ばれた演目

ウィキペディアによれば、協会は演目を甲、乙、丙、丁の四つに分け、丁を「全然口演の資格なきもの」として禁演にした。選定の中心にいたのは、協会顧問の野村無名庵である。
対象に挙がった演目として、同項目は『五人回し』『品川心中』『三枚起請』『子別れ』『居残り佐平次』『明烏』『宮戸川』『紙入れ』などの名を挙げる。いまも高座にかかる人気作が多い。
別の記事では、遊郭や妾、色恋を扱う噺が中心だったと説明される。ウィキペディアは研究者の柏木新の指摘を紹介している。協会が表明した「博徒もの」「白浪もの」(盗賊を扱う噺)は、実際の対象にはほとんど含まれず、廓や好色を扱う演目が多かったという。表向きの理由と実際の顔ぶれには開きがある。

くわしく はなし塚

禁演の台本が納められたのが、浅草寿町(現在の台東区寿)の長瀧山本法寺である。「和楽」の記事は、昭和16年10月30日に塚へ納められたと書く。ウィキペディアも、この日に塚が完成したとする。
塚の裏には、寄席の席亭や、桂文治、柳家小さん、古今亭志ん生といった落語家が発起人として名を刻んでいる、と同記事は伝える。同じ記事によれば、東京大空襲で本堂が焼けたあとも、塚は無傷で残ったとされる。

くわしく 解禁とその後

戦争が終わると、1946年9月30日に「禁演落語復活祭」が開かれた。「和楽」の記事は、埋めた落語を掘り起こしたと書く。あわせて日劇小劇場で復活興行が行われ、『明烏』などが演じられたという。野村無名庵は空襲で亡くなったとされる。
その後も、規制は一度で終わらなかった。1947年5月30日には、進駐軍のCIEの指示を受けて、落語協会と日本藝術協会が27演目を自粛した。ウィキペディアによれば、対象は「婦人を虐待するもの」などで、これらも再びはなし塚に葬られ、1949年4月の法要で解かれた。戦中は軍国の都合、戦後は占領軍の方針と、禁じる理由は変わったが、芸の側が自ら演目を引っ込めるという形は繰り返された。
2001年以降は、落語芸術協会が法要を行い、2002年からははなし塚まつりが毎年催される。2003年からは浅草演芸ホールで「禁演落語の会」が開かれており、禁演の演目を高座にかける機会は、いまでは年に一度設けられている。

なぜ起きたのか

資料から確かめられるのは、対象が遊郭や色恋を扱う噺に集中していたことと、協会が警視庁に届け出ていたことである。なぜそれらが選ばれたのかを、当事者が語った記録は、今回開いた資料には見当たらなかった。

評価の分かれる点

最大の争点は、自主規制だったのか、半ば強制だったのかである。
ウィキペディアは両方の見方を併記する。野村無名庵の随筆によれば、警察は禁止を明確には承認せず、「参考に止め置く」程度に受け取ったという。小島貞二は、落語家側の自粛自戒だったと記す。いっぽう、同項目の冒頭には「国家権力などによって自粛を強いられ」と書かれ、東京日日新聞は警視庁保安部が禁止を通達したと報じた。近藤春雄は、警視庁の禁止とは書かず「申し合せ」と記している。
JSTの記事は、落語家たちが自主規制したと書く。このように、自主規制と見る書き方も、強制と見る書き方も、現に使われている。この記事は、どちらかに決めない。

くらさんの考察

資料を並べて目に付くのは、禁演が警視庁への届け出と申し合わせの形で語られ、解禁は台本を掘り起こす復活祭という形を取った点である。禁じたのが誰であれ、演者の側に「自分たちが引っ込めた」という受け止めがあったのではないかと考えられる。ただし、これは資料が直接述べたことではない。
また、1947年の27演目の自粛は、占領下でも似た形が繰り返されたことを示す。規制の理由は時代で変わる。変わらないのは、演者が先に手を引くことで高座を守る、という選び方だったと考えられる。ただし、当事者の本心は手元の資料からは分からない。
現在もテレビやオンライン配信で、演目の一部が自粛される例はあるとウィキペディアは書く。ただし同項目は、事例の一部に出典が足りないとも示しており、本稿では個々の事例には立ち入らない。

ジージへの問いかけ

・ジージが落語を聞き始めた頃、寄席やテレビで『明烏』や廓噺を聞いた覚えはありますか。そのとき「昔は禁じられていた噺」という話を耳にしましたか。
・自分たちで演目を引っ込める「自粛」と、お上に禁じられる「禁止」では、芸人にとって何が違うと思いますか。
・戦後も27演目を自粛した、という話を、ジージはどう受け止めますか。

出典

・禁演落語(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/禁演落語
・「禁演落語」はなし塚とは(和楽 Into JAPAN WARAKU) https://intojapanwaraku.com/culture/24499/
・サイエンスポータル(科学技術振興機構) https://scienceportal.jst.go.jp/stories/20121030_01/
・サイエンスポータル(科学技術振興機構) https://scienceportal.jst.go.jp/stories/20071211_01/

動画

・【あなたの知らない落語の世界】第77回「禁演落語」(林家はな平チャンネル〜落語家の日々〜)https://www.youtube.com/watch?v=jBLmWzvhpaE

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